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2015年6月24日(水)
【通読】
2テサロニケ 2:5-7
5私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。6あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。7不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
【ポイント】
①迫害、患難の覚悟を決める
今日のみことばは非常に分かりにくいところです。ただ、これはパウロがテサロニケ教会の人々のこれまでの関わりをベースにして書かれてたものなので、「私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいた」ことを知らない私たちには、100%理解できない部分があるのも当然なのです。ただ、パウロのポイントは文脈からはっきりとしています。それは、3節の「なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」から分かるように、まだキリストの再臨は起こっていないこと、そして再臨の前に、教会を裏切るもの、惑わす者が起こされ、教会の中で大きな混乱、苦しみを経験することになるということです。
ご存知のように、これまで世界の終わりを予言する者が多く出てきて、それを信じる人、それが真実であるのか議論する人たちが起こされました。しかし、それらの予言、様々研究(推測)が的中したことはありません。世紀末ごとに、大きな戦争があるごとに、キリストの再臨の予兆ではないかと騒がれることも度々起きています。
しかし、覚えておきましょう。日々、キリストの再臨に備えながら生きている人は、デタラメ予言や噂、さらに、もしそれが本当の予言であっても、それらに惑わされる必要はありません。どのような迫害、患難が起こったとしても、私たちが行うべきことは一つだからです。それは、キリストを信頼し続けることであり、キリストと出会うときに一切の苦しみ、悲しみから解放され、完全な慰めが与えられるということです。
②キリストの再臨の時期について教える人に注意
ですから、それがどんなに有名な牧師であっても、神学者であっても、具体的な再臨の時期について教える人のことば信じてはなりません。イエス様が弟子たちにこのように教えられているからです。イエス様は、その具体的に時期について、私たちが知る必要はないと断言されているのです。
使徒1章
6そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」 7イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。”
③私たちに求められていることは、最後まで信じ続けること
最後に、マタイ24章のイエス様のことばを聴きましょう。
4そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。5わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。6また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。7民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。8しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。9そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。10また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。11また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。12不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
【今週のメッセージ】
1ヨハネ1:8-10
8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。10もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。
私たちは自分の心を開き、正直に関わり合うときに夫婦、親子、友人、同僚との関係を深めることができることを体験的に知っています。相手が心を開いてくれない時に、相手に壁を感じますし、相手との心的な距離が縮まらないときに、自分の心の開き方が十分でないことに気づいたりするものです。ただ、自分は心を開いたのに、相手から拒絶されることもあります。その時な心に大きな痛みを感じますし、次からは心を開くことに慎重になったり、そのような努力が無駄であると考えるようになる人もいることでしょう。しかし、私たち人間は心を開き合い、互いの愛を感じ、共感を覚えることを、本能的に欲しています。神様がそのような生き物としてデザインされたからです。傷つかないために心を閉ざしていても、この欲求は満たされませんから、心の内の愛、共感への渇きは満たされることはありません。
それでは、安心して心を全開にできる相手など存在するのでしょうか?そのような相手がいれば、誰も苦労しないはずです。いるのです。それが神様なのです。神様は、私たちが正直に心を開き、自分の良い所、醜いところをさらけ出しても、驚くことも、失望することも、拒絶することも絶対にありません。すべてを受け入れてくださるのです。
既に信仰を持っている方も、神様が私たちを受け入れてくださることを絶対に忘れてはなりません。必ず受け止めてくださる神様だからこそ、私たちは心を開き続けることが大切なのです。これこそが、神様との関係を深めていく唯一の方法だと言っても良いでしょう。特に、何か失敗してしまった時こそ、神様の前にたち、心を開くことが大切になります。後悔も反省は一人でもできます。しかし、神様は私たちが神様に心を開き、間違いを正直に認め、その思いを伝えることを望まれているのです。ですから、最初のポイントは
①神様に心を開く
1ヨハネ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
詩篇32: 5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ
難しく考える必要はありません。神様の前に立てている壁を取り去り、神様の前に正直に罪深さを認めれば良いのです。一言で言えば、心を開くことです。その時に、神様の関係が深められるのです。
実は、キリストを信じる私たちは、キリストに赦されている者同士として、心を開き合うことができます。
②罪を赦された者同士、心を開く
ヤコブ 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
このためには、クリスチャンらしく振る舞ったり、自分を信仰深く見せることをやめなければなりません。牧師であろうが、教会のリーダーであろうが、信仰歴の長い人であろうが、皆神様の前では不完全な者であり、成長の途中であり、日々罪を犯してしまう者なのです。なのに、誰かが自分の罪深さを隠すようになると、その姿勢が教会の中に伝染していきます。自分が十分成熟したと思い、他の人を裁き始めると、それも伝染していってしまいます。反対に、私たちが正直で、ありのままの姿をさらけ出しながらも、主に従って行きたいという思いの中で歩むと、その歩みも伝染していくのです。もし、私たちが健全な交わりのある教会、自分が安心して通える教会を求めているのであれば、自分の心を開き、自分の弱いところも隠さずに表していくこと、さらに相手の弱さに驚いたり、失望せずに、受け入れていく覚悟、約束をすることが必要になります。
ライフチャーチは、そのような交わりを目指しています。そして、各ライフグループのなかで、オープンが関わりが実現しつつあります。
また、現在人の多くは、そのような安全で安心できる人間関係を築ける場所を求めていることを覚えておきましょう。私たちが主にある健全でオープンな交わりを続けていくことが、大きな証となるのです。
使徒 2:46-47
46そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、47神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
ライフチャーチ 牧師
大谷信道