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2017年6月26日(月)
【通読】
マタイの福音書 10:1-4
1イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。2さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、4熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
【ポイント】
①使徒とは?
10章2節から、イエス様が呼び寄せられた12名が「使徒」と呼ばれていることがわかります。また、イエス様を裏切ったユダの代わりの使徒を選ぶ際の条件を使徒の働き1章21-22節に見ることができます。「21ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、22すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」つまり、使徒の資格(条件)は、イエス様から直接任命された12(11)名、またはイエス様の復活の目撃者であることがわかります。聖書の中で11名以外で、使徒と呼ばれている人は、マッテヤ(使徒1:26)、バルナバ、パウロ(使徒14:14)、ヤコブ(ガラテヤ1:9)の4名です。
聖書に見ることができる「使徒」の資格(条件)からすると、イエス様の復活を直接目撃することができない現代においては「使徒」はいないということになります。にもかかわらず、自身を「使徒」とか「使徒的」と公言している牧師、宣教師が数多くいるようです。聖書的に見ると、不適切であると言わざるを得ません。そのような指導者の影響を受けているクリスチャンは、「自分も使徒になりたい」というような、目標を持つようになってしまうことでしょう。しかし、その背後には「使徒のような権威を持ちたい」という欲望が隠れていることが多いのです。
ところが、イエス様は「25あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。26あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20:25-26)と明確の教えられています。イエス様が使徒たちに与えられた権威は、権力、地位に関係するものではなく、イエス様の計画を実現するために必要は力なのです。権力、地位などは、新約時代の使徒たちにとって一番興味のないものであったことを忘れてはなりません。
ピリピ2章1-8節
1こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、2私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。3何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。5あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、8自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
ライフチャーチ
大谷信道