デイリーディボーション 6月27日(土)

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デイリーディボーション 6月27日(土)

2015年6月27日(土)

【通読】
2テサロニケ 2:15-17
15そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。16どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が17あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。

【ポイント】
①「恵み」と「行い」の正しい関係を理解する
エペソ2章8-9節を確認してみましょう。「8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
例えば、この一箇所を見るだけでも「救い」に関しては、私たちの行いは全く役に立たないこと、そして、私たちが救われるためには、神様に手を伸ばし、神様から引き上げていただくしかないことが明らかです。神様に手を伸ばすことが、「悔い改め」と「信仰」であり、神様が私たちの手をつかみ引き上げてくださることが「愛」と「恵み」なのです。「手を伸ばすことは行いにならないのか?」と疑問に思う人がいるかもしれません。しかし、「手を伸ばす」行為は自分の努力で救いを得ることへの「諦め」、そして神様への「完全降伏」「服従」です。その行為によって自分の力で救いを得ようとする行為とは正反対の行為なのです。

②神を愛するのか、自分の幸せの道具にするかはあなた次第
それでは、パウロはなぜ依然として「あらゆる良いわざとことばとに進むよう」に命令しているのでしょうか。それは、キリストの愛、恵み、憐れみへの応答で す。ここでの「行い」の目的は救いの達成ではありません。神様の好意を得ることでもありません。「私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望み
とを与えてくださった方」への感謝の応答なのです。この点を誤解している人も多いようです。キリストの愛を受けた人は、キリストを礼拝し、キリストを愛し、キリストに従い、キリストに仕えることに喜びを覚えるのです。この行いには義務感ではなく、感謝が 伴います。これを行わなければ、救いから落ちてしまうというような恐怖感もありません。

ルカ17章のイエス様の癒し(救い)の記事を見てみましょう。
12ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って
13声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
14イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
15そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
18神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
19それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

皆さんは、日曜日の礼拝に集まるときに、どのような思いに動かされているでしょうか。この「大声で神をほめたたえながら引き返して来て、 16イエスの足もとにひれ伏して感謝した」サマリヤ人こそ、私たちの模範ではないでしょうか。

【今週のメッセージ】
1ヨハネ1:8-10
8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。10もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

私たちは自分の心を開き、正直に関わり合うときに夫婦、親子、友人、同僚との関係を深めることができることを体験的に知っています。相手が心を開いてくれない時に、相手に壁を感じますし、相手との心的な距離が縮まらないときに、自分の心の開き方が十分でないことに気づいたりするものです。ただ、自分は心を開いたのに、相手から拒絶されることもあります。その時な心に大きな痛みを感じますし、次からは心を開くことに慎重になったり、そのような努力が無駄であると考えるようになる人もいることでしょう。しかし、私たち人間は心を開き合い、互いの愛を感じ、共感を覚えることを、本能的に欲しています。神様がそのような生き物としてデザインされたからです。傷つかないために心を閉ざしていても、この欲求は満たされませんから、心の内の愛、共感への渇きは満たされることはありません。

それでは、安心して心を全開にできる相手など存在するのでしょうか?そのような相手がいれば、誰も苦労しないはずです。いるのです。それが神様なのです。神様は、私たちが正直に心を開き、自分の良い所、醜いところをさらけ出しても、驚くことも、失望することも、拒絶することも絶対にありません。すべてを受け入れてくださるのです。

既に信仰を持っている方も、神様が私たちを受け入れてくださることを絶対に忘れてはなりません。必ず受け止めてくださる神様だからこそ、私たちは心を開き続けることが大切なのです。これこそが、神様との関係を深めていく唯一の方法だと言っても良いでしょう。特に、何か失敗してしまった時こそ、神様の前にたち、心を開くことが大切になります。後悔も反省は一人でもできます。しかし、神様は私たちが神様に心を開き、間違いを正直に認め、その思いを伝えることを望まれているのです。ですから、最初のポイントは

①神様に心を開く
1ヨハネ1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
詩篇32: 5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

難しく考える必要はありません。神様の前に立てている壁を取り去り、神様の前に正直に罪深さを認めれば良いのです。一言で言えば、心を開くことです。その時に、神様の関係が深められるのです。

実は、キリストを信じる私たちは、キリストに赦されている者同士として、心を開き合うことができます。

②罪を赦された者同士、心を開く
ヤコブ 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

このためには、クリスチャンらしく振る舞ったり、自分を信仰深く見せることをやめなければなりません。牧師であろうが、教会のリーダーであろうが、信仰歴の長い人であろうが、皆神様の前では不完全な者であり、成長の途中であり、日々罪を犯してしまう者なのです。なのに、誰かが自分の罪深さを隠すようになると、その姿勢が教会の中に伝染していきます。自分が十分成熟したと思い、他の人を裁き始めると、それも伝染していってしまいます。反対に、私たちが正直で、ありのままの姿をさらけ出しながらも、主に従って行きたいという思いの中で歩むと、その歩みも伝染していくのです。もし、私たちが健全な交わりのある教会、自分が安心して通える教会を求めているのであれば、自分の心を開き、自分の弱いところも隠さずに表していくこと、さらに相手の弱さに驚いたり、失望せずに、受け入れていく覚悟、約束をすることが必要になります。

ライフチャーチは、そのような交わりを目指しています。そして、各ライフグループのなかで、オープンが関わりが実現しつつあります。
また、現在人の多くは、そのような安全で安心できる人間関係を築ける場所を求めていることを覚えておきましょう。私たちが主にある健全でオープンな交わりを続けていくことが、大きな証となるのです。

使徒 2:46-47
46そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、47神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

ライフチャーチ 牧師
大谷信道


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