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2017年6月5日(月)
【通読】
マタイの福音書 7:1-5
1さばいてはいけません。さばかれないためです。2あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。3また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。4兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。5偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
【ポイント】
①頑張っている人は注意
信仰の歩み、仕事、勉強、スポーツ、子育てなど、自分が特に一所懸命頑張っている、努力していることがらについて、他の人が自分より頑張っていない、手を抜いていると感じると、その人をさばきたくなる、正したくなるという傾向を誰でが持っているものです。
その要因の一つは、自分が義務感や無理やりやらされているという感覚で物事に取り組んでいることです。大変だけれでも楽しみ、喜びながら物事に取り組んでいるときは、他人のことは気になりません。しかし、どこか義務感を持ちながら物事に取り組んでいる時に、心のどこかで「自分は損をしている。」「自分だけ苦労している。」と感じているので、他人が自分と同じ損、苦労をしていないのは不公平だと考えるのです。そこで、その不公平感をなくすために、他の人にも同じ重荷を負わせようとしてしまうのです。しかし、「自分だけ損をするのは嫌だ!」と正直には言わず、「あなたもこれをするべきだ!」と相手をさばくのです。
別の要因は、自分の苦労を認めて欲しいという自己顕示欲です。義務感からではなく、前向きに物事に取り組んでいる時にも、疲れを感じることもありますから、時としてその努力を認めて欲しいという思いが起こることがあります。しかし「私の頑張りを理解して!」とは言い辛いので、「あなたも同じようにやってみみなさい!」という表現になってしまうのです。「◯◯さん、こんなに大変なことに取り組んでいるんですね!」という一言が聞きたいのです。
ですから、何事にも一所懸命取り組んでいる人は注意が必要です。
②一番の原因は神様不在
「さばき心」の問題の本質は、「祈り」「断食」のそれを同じです。生活の中で神様の臨在(神様が生きて働かれていること)を忘れる時に起きます。なぜなら、自分の一生懸命な取り組みを神様が喜んでくださっているという確信があれば、私たちの心は喜びで満たされ、他人の怠惰さが気になったり、自分の努力を他人から褒められたいという気持ちになったりしなくなるからです。つまり、他人をさばきたいという気持ちが起こらなくなるということです。
ですから、他人をさばきたくなったら、自分の神様との日々にの交わりに問題があること理解してみましょう。神様との正しい交わりを持てば、自分がどんなに努力していても、依然として足りないところがあることに気づかせてもらえます。また、それが不完全であったとしても、自分の努力、一生懸命さを神様はよくご存知で、その取り組みを喜んでくださっていることに気づくことができるはずです。
ライフチャーチ
大谷信道