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2015年6月5日(金)
【通読】
1テサロニケ5:9
9神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
【ポイント】
①神様のさばきについて正しく理解する
神様は罪深い私たちを愛し、私たちが神様の愛に応え、神様を愛するようになることを望まれています。一方、人間はこのような愛を持っていません。自分の言うことを聞いてくれる人、自分が尊敬できると感じる人、自分の期待に応えてくれる人、自分を楽しませてくれる人が「好き」だと感じ、そうでない人は「嫌い」、「興味が無い」と感じるのです。このような感覚は親子関係にすら入り込み、自分の言うことを聞かない子ども、自分の期待通りに成長しない子どもを受け入れられない、愛することができないと感じている親は少なくありません。子どもの感覚は極めて敏感ですから、自分は親の要望、期待に応えられていないから親から愛されていないのではないかという不安を持つようになります。その結果は様々です。親の期待に応えるために、必死に勉強やスポーツを頑張る子どももいれば、親の期待に応えられない自分を責め無気力になったり、期待を押し付けてくる親に反抗したりする子どももいます。ところが、多くの親は、頑張っている子どもをみると安心し、その内にある不安や恐れに気が付きません。また、親に反抗したり、意欲をなくしている子どものうちにある寂しさにも気が付かず、もっと頑張れと叱ったり、突き放したりするのです。しかし、子どもが求めているのは、親から受け入れられているという安心感なのです。残念ながら、私たちの多くはこのような親子関係が当たり前だと思って成長してしまうのです。
この問題は、私たちと神様の関係にきわめて大きな影響を及ぼしてしまうという事実を知りましょう。このような歪んだ愛の中で育った私たちは、最初は神様の愛に触れ、キリストを信じクリスチャンになったにもかかわらず、時間の経過とともに、自分が理想的なクリスチャン生活を遅れていないと感じると、神様に受け入れられている実感が持てなくなってしまうことがあるのです。ある人は、その実感を得るために、聖書を勉強したり、祈りの時間を多く持ったり、難行苦行を行ったりします。傍から見ると、熱心なクリスチャンに見えるかもしれませんが、本人の心の中は努力をやめたら神様から怒られる、見放される、愛想つかされるのではないかという不安と恐れに満ちているのです。反対に、自分はいい加減な信仰生活をしているから、神様は自分に落胆し、愛してくれなくなってしまったに違いないと思い、神様から心が離れていってしまうクリスチャンも大勢います。この両方とも、この世の歪んが愛の悪影響を受けてしまったことに原因があるのです。
しかし、神様は地上の愚かな親とは違い、完全な愛を持った方であることを知りましょう。神様は意地悪な裁判官でも、私たちをふるいにかけ、落第させるための試験官でも面接官でもありません。神様はそのドアを開け、いつでも私たちがその中に入ってくるの待っておられるのです。ただ、待っているだけでなく、地上に御子を遣わし、人々を招かれたのです。
あなたはその愛について本当に正しく理解していますか。その愛の関係をベースにして、救いについて、さばきについての神様の思いを正しく理解しているでしょうか。それとも、自分と親の関係と同じような関係を神様に対して適用してしまってはいることはないでしょうか?
愛されるために頑張る。裁かれないために頑張る。というような間違った観念は今すぐに捨て去り、神様は既に私たちを受け入れ、愛してくださっているいるという事実を信じ続け、この事実を自分の頭と心に叩きこむのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
【今週の礼拝での聖句】
中心聖句:ヨハネの福音書16章8、
8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
先週は、ペンテコステの出来事は、弟子たちだけでなくその場にいたすべての人が弟子たちに聖霊が与えられることを目撃したことにあったこと、さらにそれはイエス様の約束が間違いなく成就したことを弟子たちが確信したこと学びました。
聖霊の働きが異言、預言、癒し、悪例払い、突然のひらめき(啓示)、予期しない出会いなどばかりを想像する人が多いかもしれません。もちろん、それらすべてを弟子たちも経験していることは確かです。しかし、ペンテコステの本当の重要性がそのような特別な出来事にあるのではないことは、使徒の働きのペンテコステの記事を読めば明らかです。イエス様は聖霊が与えられる前のこのように約束されました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
そして、ペンテコステの日にそれが起こるのです。つまり、「聖霊が与えられる」→「主をあかしする」というイエス様の約束と命令の通りのことが起きたのです。実は、この約束は使徒の働きだけでなく、今日のヨハネ16章にもはっきりと記されているので、しっかりと学んでみましょう。(礼拝では用いなかった聖書箇所も加えてあります。)
①聖霊は私たちに罪を認めさせる
聖霊の力をもってキリストを証しすると人々は罪を認め、悔い改めに導かれます。
ヨハネ16: 8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
使徒 2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
②聖霊はイエスの義を明らかにする。
聖霊の力をもてキリストを証しすると、キリストの義が明らかにされます。
マルコ15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。
③聖霊は裁きについて明らかにされる
聖霊の力をもってキリストを証しすると、さばきの恐ろしさが明らかにされます。
ガラテヤ3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
④聖霊は私たちを真理に導き入れる
聖霊の力をもって証しすると、人々は真理を悟ることができる
つまり、①~③にあるように、イエスが間違いなくキリストであること、つまり「「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」という確信に導かれるのです。
聖霊の力強い働きを体験したいというクリスチャンはたくさんいることでしょう。その一番の方法は「キリストを証し」することです。聖霊はそのための力なのです。「主よ聖霊で満たして下さい。あなたの聖霊を体験したいのです!」と祈った時に、主から「どうして?」と聞かれたらどのように答えますか?私たちはこの質問にはっきりと答える必要があるのです。キリストを信じる者すべてに聖霊は与えられています。しかし、聖霊がなぜ与えられているのか、神様がなぜ聖霊を持って私たちに力をあたえらえるのかをはっきりと理解しましょう!
ライフチャーチ牧師
大谷 信道