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2017年6月7日(水)
【通読】
マタイの福音書 7:7-12
7求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。8だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。9あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。10また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。11してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。12それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。
【ポイント】
①神様はあなたにとって「父」か?
神様は自分の夢を叶えるための便利な存在ではありません。神様は天の父として、私たちを愛し、私たちが天の父を愛することを望まれています。神様はご自身が子から愛されることによって栄光を受けられることを喜ばれるだけでなく、私たちが天の父の愛を受け、平安の中で永遠に生き続けることを喜ばれるのです。
今日の箇所の本当のポイントもそこにあります。多くの人は「自分の欲しいもの手に入れる方法」としてこの箇所を理解しているようです。しかし、神様が本当に求められていることは、私たちが子として、天の父を愛し、信頼することなのです。7節の「与えられます」、8節の「開かれます」という受け身(受動態)の表現の意味を考えてみましょう。与えるのは誰でしょうか?
開いてくださるのは誰でしょうか?9節以降を読めば、それが「天の父」であることが明らかですね。つまり、イエス様が本当に教えようとしていることは、私たちが天の父と親子のような関係を築くことなのです。
②神様は「良いもの」を与えてくださる。
「良いもの」とは、誰にとって良いものなのでしょうか?当然、与える主体である神様の目から見て「良いもの」です。ですから、いくら子どもが欲しがっているとしても、天の父にとって与えるべき「良いもの」と判断できないものは、その愛のゆえに与えられないこともあるのです。「3願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ4:3)
ルカの福音書11章13節には「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と、「良いもの」は「聖霊」であると明記しています。つまり、私たちが何よりも求めなければならない、絶対に必要な「良いもの」は、神様(聖霊)との交わりだということがわかりますね。
ライフチャーチ
大谷信道