デイリーディボーション 6月9日(火)

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デイリーディボーション 6月9日(火)

2015年6月9日(火)

【通読】
1テサロニケ5:14
14兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

【ポイント】
①寛容の反対は「こだわり」
先日、あるテレビ番組でストレスを感じやすい人の特徴の一つが「こだわり」の強さだと精神科医の方が説明していました。つまり、こだわりの強い人は、そのこだわりが良い物を作り出す原動力になっているとしても、その本人は常に大きなストレスを感じ、平安、幸せな感じを持ちながら人生を歩めていないということなのです。ストレスが肉体的な病の原因になることは周知の事実ですから、こだわりの強さは、自分を精神的、肉体的な病気に追いやってことになるわけです。なんという皮肉でしょうか。

「こだわり」の強いに人にしてみれば、自分のこだわりは自分の思想、哲学、生き様と密接に関係している極めて重要なもの、時には崇高なものと考えているのでしょうが、決してそのように美しいだけもものではありません。その背後には、強い自己中心性、他者との争い、完璧主義など、結局自分の思い通りにならなければ我慢できないという、人間としての狭量さが隠れているのです。その「こだわり」によって、自分やいっしょにいる家族、職場の仲間が幸せを感じていればよいでしょうが、その反対の場合の方が多いのではないでしょうか。「こだわり」の強い人は、それに付き合う家族、仲間に嫌な思いをさせてはいないのか考えてみることです。そして、自分が周りの人達の忍耐、寛容さに許され、支えられていることに気づくべきなのです。

②寛容さを発揮する
こだわりが強い人が寛容さを発揮するために必要なことは「妥協」を覚えることではありません。そうではなく、本当にこだわらなければならないことと、そうでないことを区別することを学ぶことが重要なのです。イエス様はその完璧な見本です。イエス様は律法に間違ったこだわりを持っていたパリサイ人、律法学者を強く非難されましたが、イエス様はこのようにも言われています。「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:18)つまり、イエス様は旧約聖書の細部にわたるまでその権威について認められていたわけです。そのこだわり様はパリサイ人、律法学者以上です。しかし、その律法の理解については、枝葉末節にこだわるのではなく、本質論を大切にされました。例えば安息日に「何が働く事になり、何が働くことにならないのか」という議論にこだわっていたパリサイ人に対し、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(マルコ2:27)と教えられ、安息日の律法の本質に目を向けるように教えられたのです。

現代の教会でも同じです。教会が従来の教会らしく見えるように、礼拝の形式・プログラムに強いこだわりを持っている牧師、クリスチャンがたくさんいます。しかし、その日の礼拝がどれほど真実なもの、心からの感謝、悔い改めがなされたのかということにこだわる人、気にするは多くありません。私たちは本当にこだわらなければならないことは、それほど多くありません。それは神を愛し、隣人を愛することです。それ以外のことについては、寛容さを発揮することが求められているのです。こだわりが少なければ、私たちはストレスから解放されることにもなるのです。

ルカ11章のイエスさまのことばを聴きましょう。
“41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 ”

【今週の礼拝での聖句】
中心聖句:コロサイ人への手紙 3章16節
16キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

今週はカリフォルニア・バプテスト大学の聖歌隊による特別讃美の時間を持ちました。聖歌隊がハーモニーを作り上げる時に、また全員が心を合わせて讃美する姿を見るときに、私たちはそれを「美しさ」として感じ、心に喜びが与えられます。神様は、「ハーモニー」「調和」を美しいものと感じるように人間を設計されたのです。しかし、それは同時に神様もハーモニー、調和を喜ばれることを示唆しています。なぜなら、神様はご自分に似た者として人間を創造されたからです。(創世紀1:26)

今週と来週はコロサイ人への手紙の3章から学びますが、ここに記されている教会の姿は、キリストへの信仰によって一致し、まるで美しいハーモニーを奏でるように、一人ひとりが与えられた賜物を用い、互いに支えあっている姿といえるでしょう。ハーモニーは一人では作り出すことができません。また、超一流のソロ歌手が集まったとしても、それが美しいハーモニーになるとは限りません。同じように、私たちは、一人で信仰生活を歩んでも、神様が喜ばれる調和を作り出すことはできません。また、経験豊かな牧師、神学者が集まったとしても、それだけでは一致を実現することはできないのです。そこにいる全員が、自分のスタイル、主張があったとしても、場合によっては教会の調和のためにそれらに変更を加えたり、控えたりすることが求められるのです。聖歌隊も、教会も個人が別々に自分の理想を実現するための場所ではなく、ひとりひとりの個性が生かされつつ、美しい調和を作り出すことを大切にしている集まりであることを覚えておきましょう。

ライフチャーチ牧師
大谷信道


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