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2017年7月11日(火)
【通読】
マタイの福音書 11:20-24
20それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。21「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。22しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。23カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。24しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
【ポイント】
①伝道の現実
20節を見てみましょう。「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。」ここに一つの現実を見ることができます。それは、コラジン、ベツサイダ、カペナウムでは、人々はイエス様の奇跡を目撃したにもかかわらず、大多数の人が「悔い改め」「信仰」に進むことがなかったということです。
これまで何度も学んで来たように、大切なことは「しるし・奇跡」に感激したり、興奮することでも、自分に対して「しるし・奇跡」を行ってくれるように求めることでもなく、「しるし・奇跡」を行なう力、そのような権威を持っているイエスが何ものであるのかを考えること。そして、もし「イエスは旧約聖書に約束されているメシア(キリスト)」であるという結論に達することができたとしたら、自分自身のキリストに対する態度を明確にすることです。つまり、その完全な正しさによって、私たちを救うことも、罪に定めることもできる方を、自分の救い主として信頼し従っていくのか、それともそれ以外の態度(拒絶する、無視する、良い教えだけ学ぶ、病気だけいやしてもらう、適当な距離感を保つ)を取るのかを決めることです。コラジン、ベツサイダ、カペナウムの住民のほとんどが後者を選んでいたのです。
②正しい決断をする
イエス様は、教え、業、そして十字架と復活をもって、ご自分が何者であるのか、さらにご自身の私たちに対する愛をはっきりと示されました。そして、私たちがその愛を受け取り、正しい決断として、イエス様を愛する者となることを望まれています。
③イエス様を愛する決断によって歩んでいるか?
私たちの「イエス様を愛する決断」が真実なものであるのかを確かめるのは簡単です。イエス様はヨハネの福音書13章でこのように教えられました。「34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
私たちが、イエス様が私たちを赦し、愛してくださったように、私たちの主にある兄弟姉妹を赦すこと、愛することに真剣に取り組んでいれば、私たちはイエス様の誠実な弟子であるということがわかります。反対に、どんなに熱心に聖書の勉強をしていても、神学の研究をしていても、兄弟姉妹を赦すこと、愛し、受け入れることに熱心に取り組んでいなければ、イエスを愛する者、イエス様の忠実な弟子とはいえないのです。
ライフチャーチ
大谷信道