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2017年7月13日(木)
【通読】
マタイの福音書 12:1-8
1そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。2すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」3しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。4神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。5また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。6あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。7『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。8人の子は安息日の主です。」
【ポイント】
①イエスは「安息日の主」
8節の「人の子は安息日の主です。」ということばに、今日の箇所の中で行われている議論の最終的な結論を見ることができます。つまり、イエス様は「安息日に何をしてよいのか、何をしてはならないのかを決めるのは、あなたがた律法学者でもパリサイ人でもなく、神の独り子である私である。」と言われているです。
とは言え、イエス様は自分勝手に安息日の律法を変更しているわけではありません。単に、聖書に記されている通りに安息日を守れば良いと教えられているだけなのです。3節の「読まなかったのかですか。」、5節の「律法で読んだことがないのですか」ということばは、旧約聖書の記述(サムエル記上21章、レビ記24章)を無視し、聖書以外の細則を優先させているパリサイ人たちに対する皮肉を込めた質問なのです。
モーセ以降、多くのイスラエルの教師たちが聖書に書かれていない細則を作ってきました。イエス様の時代には宗教熱心なひとほど聖書の律法だけでなく、細則まで守るように頑張っていました。昨日も触れましたが、イエス様は人々を「疲れた人」「重荷を負っている人」(11:28)、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」(9:36)と見ておられたのです。
②あなたの「安息日の主」に対する態度は?
7節の『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』も旧約聖書のホセア書6章6節から引用です。「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」とあります、さらに7節には「ところが、彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。」とあります。
ここに、もう一つのイエス様の結論を見ることができます。イエス様は、人々が天の父を知り、愛し、天の父に対して「誠実」であり続けることを求められていると教えられているのです。強いられて律法や細則を守っても、表面的にそれらを守っているふりをしても、天の父は一つも喜ばれていないということです。
ですから、今日の箇所で私たちが真剣に考えなければならないことは、「自分のイエス様、天の父に対する態度は誠実であるのか?」ということなのです。ここで問題になっている「安息日」、クリスチャンにとっては「主の日」の過ごし方に、礼拝の持ち方に、天の父に対する誠実さが表れているでしょうか。私たちは、神様を愛し、誠実に礼拝し続けることを、天の父と約束したことを忘れてはなりません。イエス様は安息日、主の日を適当に守れば良いなどと一切教えられていません。むしろ、その反対です。イエス様は「真心」「誠実」「愛」を求められているのです。
ライフチャーチ
大谷信道