デイリーディボーション 7月14日(金)

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デイリーディボーション 7月14日(金)

2017年7月14日(金)

【通読】
マタイの福音書 12:9-14
9イエスはそこを去って、会堂に入られた。10そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。11イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。12人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」13それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。14パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。

【ポイント】
①自主的な信仰VS義務的な信仰
イエス様、そして聖書全体に見ることができる信仰の本質は「愛」です。「神様(イエス様)を信じる」とは「神様(イエス様)を愛する」ことです。「愛」はあらゆる義務から私たちを自由にします。例えば、ユダヤ人の安息日の守り方について言えば、神様を愛する人は、喜んで安息日に仕事をしないという選択をするのです。しかし、神様への愛が抜け落ちてしまうと、安息日は単なる規則、守らなければならない義務となってしまうのです。義務感から行なう安息日、礼拝を神様が喜ぶでしょうか。

モーセ以降、聖書に記されていない様々な細則が出来上がってしまったわけですが、恐らくその理由は指導者だけでなく、民衆にもあったと想像できます。神様を愛さず、安息日にも仕事がしたいと考える人は、指導者たちに「先生、安息日に◯◯をすることは仕事をすることにはならないですよね。」などという質問をした人たちもいたことでしょう。真面目な指導者たちは、律法の抜け道を探そうとするような人々を戒めるためにも、生活の細部に渡り、何が仕事にあたるのか、あたらないのかを決めなければならなかったのでしょう。もし、人々が神様への愛の応答として、喜びのうちに安息日を守っていたら、細則などできなかったかもしれませんね。

②あなたは、神様への愛で動いているか?
クリスチャンになっても「お酒は飲んでもいいのですか?」という質問を受けることがありますが、多くの場合、クリスチャンになってもお酒を飲みたいと考えている人がこのような質問をするようです。同じように「十分の一献金は、手取りの十分の一でいいのでしょうか?」という質問を受けることがありますが、質問の背後には「なるべく献金額を低く抑えたいので・・・」という思いが隠れていることは明らかです。つまり、私たちクリスチャンも、気をつけなければ、礼拝出席、奉仕、献金、祈り、聖書を読むこと、節制などが「義務」であると感じている場合があるということです。

一方、神様を本当に愛している人は、神様に対して最善を捧げていきたいという強い思いが与えられます。親が愛する子どものために、夫婦が相手のために最善を尽くして行きたいと思うのと同じです。

あなたの信仰の歩みが義務感に支配されていることはないですか?お願いされてでもなく、義務としてでもなく、愛の応答として、神様に対して誠実な歩みをしていきたいという思いに動かされていますか?

ライフチャーチ
大谷信道


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