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2017年7月19日(水)
【通読】
マタイの福音書 12:33-37
38そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」39しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。40ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。41ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。42南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
【ポイント】
①頑固な人々を叱るイエス様 その2
38節のパリサイ人の質問が全くふざけたものであることに気がつく必要があります。なぜなら、イエス様はこれまで幾度となく「しるし」を行ってこられているからです。例えば、「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。」(マタイ8:16)、「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」(マタイ9:36)と記されている通りです。
②悪い、姦淫の時代はしるしを求める
今の時代も「しるし」を求める時代であると強く感じます。イエス様は「しるし」を求める時代(人々)を「悪い」「姦淫」と呼ばれていますが、一体何が問題なのでしょうか。イエス様を信じるために、その証拠を求めることはある意味自然なことなのではないでしょうか。
「しるし」を求める人の問題は、論理的思考の欠如です。パリサイ人たちは、それまでにイエス様が語られた「ことば」、行われた「しるし」について、自分が直接目撃していなくても、それが事実であると確認することができます。そして、確認した事実から「イエスが何者であるのか」という疑問についての答えを導き出すことができるはずなのです。そのような検証もせず、新たな「しるし」を求めることは、それまでに与えられた「しるし」を無駄にすることになるのです。
皆さんはどうでしょうか。聖書に記されているイエス様の「ことば」「しるし」が事実であると信じているでしょうか。もちろん、十分な検証ができていないために信じられないと感じている人もいることでしょう。しかし、聖書のことばが真実であると確信し、信仰に導かれている人はどうでしょうか。私たちの信仰の歩みのために、更なる「しるし」は必要でしょうか。それとも、「しるし」は十二分に与えられているでしょうか。答えは後者ですね。イエスさまがキリストである、神の独り子であるという結論を導き出すために必要な証拠はすべて揃っているのです。
「しるし」を求める人は、次のような質問にこたえる必要があります。「それでは、今、神様が目の前に現れ、イエスがキリストであるという決定的な証拠を見せられたら、あなたは悔い改め、自分を捨て、自分の十字架を背負い、イエス様に全幅の信頼を置き、イエス様に従いますか?」確信をもって「はい!」と答える人は多くはないと思われます。
そこから、イエス・キリストを信頼し、愛し、従っていくかどうかの決断の障害となっているのは、「証拠」「しるし」の不十分さではなく、悔い改めること、イエス様に服従することを拒む、私たちの内のエゴ、罪の性質であることがわかります。「もっとしるしが与えられれば・・・。」というのは、単なる言い訳であり、問題の本質ではないのです。
ライフチャーチ
大谷信道