デイリーディボーション 1月14日(木)

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デイリーディボーション 1月14日(木)

2022年1月14日(木)
マタイの福音書 17:6-9 6弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。7すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。8それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。9彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられた。
【ポイント】 ①イエス様の私たちへの証し 9節を見てみましょう。新改訳聖書では「いま見た幻」という訳語になっていますが、新共同訳聖書では「今見たこと」と訳されています。英語の聖書では原語の直訳を重んじている聖書では「vision・ビジョン」と訳されていることが多いようです。この個所からも、この出来事が現実であったのか否かということよりも、それが現実であれ、幻であれ、イエス様がペテロ達に何を見せ、何を理解させたいと思われていたのかが重要であることが分かります。
それは、言うまでもなく、先の16章21節にあった「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないこと」であり、今日の9節の「人の子が死人の中からよみがえる」ことです。16章にあった通り、ペテロ(他の弟子たちも)このイエス様の計画が事実であると信じたくないと思っていました。イエス様がイスラエルの新しい王となり、自分が新しい国で要職に就くことを夢見ていたからです。
イエス様は、依然として弟子たちがその夢を捨てることができていないことをご存じだったのでしょう。ですから、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」ということばを聞かせられたのです。彼らは、イエス様のことばを信じることと、自分たちの夢を実現させることのどちらを優先させるのかの分岐点に立っていたのです。
私たちも、早かれ遅かれ、ペテロ達と同じ分岐点に立たされます。それは、イエス様の招きのことばを聞くときです。「24…だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
あなたは自分の人生の歩みにおいて、何を最優先させていますか。かつてのペテロ達のように、自分の夢の実現のためにイエス様を利用するようなことをしてはいないでしょうか。正直に自分の心に聞いてみましょう。
ライフチャーチ 大谷信道


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