デイリーディボーション 1月23日(火)

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デイリーディボーション 1月23日(火)

2018年1月23日(火)

【通読】
ローマ人への手紙 4:18-25
18彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。20彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、21神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

23しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

【ポイント】
①「アブラハムへの約束」は「すべての人への約束」
使徒パウロは旧約聖書全体から神様の救い(祝福)の計画について説明しようとしています。特に4章ではモーセを通して「律法」が与えられる何百年も前の時代に生きていたアブラハムに注目していましたね。アブラハムについて何が重要だったか覚えていますか。そうです。アブラハムは「律法」が与えられる前の時代にあって、「信仰」によって義とされたということです。つまり、神様に義とみなされるためには「律法」の遵守が絶対条件ではなかったということがアブラハムについての記述から明らかなのです。しかし、律法が自分たちのアイデンティティーの一部になっていた、イエス様、パウロの時代のユダヤ人にとっては、到底受け入れることができない主張であったわけですが、客観的に聖書を読めば、律法が与えられる前に生きていたアブラハムが律法の行いによらず、信仰によって義とされたことは紛れもない事実なのです。

先週も繰り返し学びましたが、ここで私たちにとって極めて重要なポイントがあります。それが23~25節に記されているのです。つまり、アブラハムが信仰によって義とされたのであれば、「信仰による義」という法則は、その後のすべての人々に普遍的に適用されるべき法則であるということです。「信仰による義」は、ユダヤ人だけでなく、ユダヤ人以外のすべての人々に適用可能なメッセージなのです。創世記12章3節に記されてる「3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」という神様のアブラハムに対する約束は、現代に生きる私たちにも依然として有効な約束なのです。

②しかし、「律法」が消滅したり、無効になったわけではない
イエス・キリストの福音は、「律法」を無効にし、アブラハムとの約束だけを有効にるするというようなものではなありません。反対に、キリストの福音に旧約聖書との矛盾点があるとすれば、それは人間の勝手な作り話と結論付けられるべきです。しかし、実際には、キリストの福音は、神様のアブラハムとの約束とも、律法とも全く矛盾がないものなのです。その点について、5章で学んできます。

ライフチャーチ
大谷信道


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