デイリーディボーション 1月26日(水)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 1月26日(水)

2022年1月26日(水)
マタイの福音書 18章1-7節 1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」2そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、3言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。4だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。5また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。6しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。7つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。
【ポイント】 ①「一番偉くなりたい」という欲求の深刻さを知る 「偉くなりたい」という欲求はすべての人間の心を支配しています。恐らく「自分は偉くなることには興味がない!」という確信を持っている人がたくさんいることでしょう。しかし、ここでの「偉くなりたい」が意味していることは、けっして高い地位や身分を獲得することだけを意味しているのではありません。他人と自分の外見、運動能力、学力、学歴、収入などを比較している自分はいないでしょうか。そこで、一喜一憂している自分はいないでしょうか。私たちは、日本という比較的に豊かな国に暮らしています。ニュースなどで海外での貧困、戦争などのニュースを見るときに、そこに住んでいる人と自分の状況を比較し、安心したり喜んでいる自分はいないでしょうか。立場が逆になってしまったとしても、今持っている幸福感や安心感を維持して生きて行ける確信があるでしょうか。つまり、「一番」ではなくても「他の人よりは良い状態」であったり、「他の人とは違うという特別感」などが心の安定を支えている人がたくさんいるはずなのです。
この感覚は、信仰の中にも入り込む可能性があります。ユダヤ人は「自分たちは神様に選ばれた者である」という優越感を持ち、それが神様の前での傲慢さに繋がってしまいました。クリスチャンの中にも、自分たちは罪を赦された聖い存在であると誇り、クリスチャン以外の人々を軽蔑する人がいるようです。または「自分は異言が語れるがあの人はまだ語れない」などというように、勝手な優劣、ランク付けをしているクリスチャンもいます。大変恐ろしいことは、イエス様の「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」というみことばに反しているという自覚がないことです。
あなたは大丈夫ですか?
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info