デイリーディボーション 1月26日(金)

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デイリーディボーション 1月26日(金)

2018年1月26日(金)

【通読】
ローマ人への手紙 5:6-8
6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

【ポイント】
①「信仰による義」は「神様の愛」その2
「信仰による義」は神様の完全な愛によって実現されています。しかし、不完全な愛しか有していない人間にとっては、「信仰による義」は非理性的、非合理的な行為に見えることでしょう。繰り返しになりますが、罪深い人間は「自分の蒔いた種を自分で刈り取る」「因果応報」「自己責任」というような考え方が、最も理性的で合理的であるという結論に行きつくはずです。なぜなら、今日の箇所でパウロが語っているように、「正しい人のために死ぬ人」がほとんどいないのに、「罪人のために自分の犠牲にする」人などいるはずもなく、そのような馬鹿げた行動をする理由も見つからないからです。この、罪深い人間の目には非理性的、非合理的と思われる神様の性質をパウロ(イエス様)は「愛」と呼んでいるのです。

②「神様の愛」を信じる
先日も確認しましたが、私たちは、この人間の常識に合わない「神様の愛」を信じる必要があります。自分の行いの責任は自分が取るべきであるというこの世の常識を積極的に捨て去らない限り、神様の愛を受けることができないのです。とくに、真面目な人、勤勉な人、正義感が強い人は要注意です。なぜなら、真面目な人ほど、努力や対価を払わずに何か大きな価値をものをもらうことに、抵抗、遠慮、負い目を感じてしまう傾向があるからです。無償のプレゼントを純粋に喜ぶことができないのです。自分ではそれが正しい考え方だと思っているのですが、その人間性は大変窮屈で不自由なものと言わざるを得ません。無邪気な子どもは、素敵なプレゼントをもらう時に、何も考えず、手放しで純粋に喜ぶものです。私たちはそのような子どものような純粋さ、自由さが求められるのです。なぜなら、神様は「救い」という努力やお金で絶対に手に入れることができないものを、無償で私たちに与えたいと思われているからです。

ライフチャーチ
大谷信道


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