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2022年1月28日(金)
マタイの福音書 18章8-9節 10あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。11[人の子は、失われている者を救うために来たのです。]12あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。13そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。14このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
【ポイント】 ①「守護天使」という肉的な教えに注意する 本題に入る前に、すべてのクリスチャンが確認するべき重要なポイントがあります。驚くことに、10節の「彼らの天の御使い」という箇所などから、神様を信じる者は自分を守り導くための「守護天使」が与えられているという解釈がカトリック教会の中でなされ、プロテスタント信者もその影響を受けているケースがあるようです。例えば、聖パウロ女子修道会(女子パウロ会)のウェブサイトにはこのように記されています。
「第一木曜日は、守護の天使にささげられています。それは、私たちが守護の天使を知り、霊的、物的危険に際して悪魔のわなから免れ、天の国に導こうとする天使のやさしい心遣いに従うためです。」 www.pauline.or.jp/prayingtime/pau_week_thu.php
しかし、今日の個所から、天使が個人の信徒を導く存在であるという記述を見出すことは出来ません。むしろ、ポイントは「天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ている」という部分です。つまり、御使いであろうが、御霊であろうが、天の父の御心に従って行動しているという意味であり、私たちも同じように、ここでは「小さなものを見下げない」という神様の御心に従うことの重要さが語られているだけなのです。ですから、御使いは祈りを捧げられる対象などでは絶対にありえないのです。御使いを拝もうとした使徒ヨハネに対して、御使いは下のような警告を与えました。
ヨハネの黙示録 19:10 10そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」
使徒の時代から天使礼拝にふける者が存在していたことが推察できますね。使徒パウロも、天使礼拝を厳しく戒めています。
コロサイ人への手紙 2:18-19 18 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、19かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。
天使崇拝と先祖崇拝に何が違いがあるでしょうか。全くありません。聖書を読めば、天使も人間も神様の「被造物」であり、双方とも神に仕える存在であることは明らかです。たとえ、天使が神様の命令に従い人々を導く働きをしているとしても、天使が礼拝・祈りの対象になることは絶対にあってはならないのです。神様の命令に従い人々を救いに導く働きをしている牧師・伝道者・信徒が救われた人から礼拝を受けるべきではないのと全く同じです。
私たちが正統だと信じているキリスト教会の中に、いかに多くの非聖書的な教えが入り込んでしまっているのかに驚きましょう。
長くなりましたので、「小さい者」については次回学ぶこととします。
ライフチャーチ 大谷信道