デイリーディボーション 1月5日(水)

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デイリーディボーション 1月5日(水)

2022年1月5日(水)
マタイの福音書 16:21-25 21その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。22するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」23しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
【ポイント】 ①十字架の傍観者になってはいけない 多くの人は、ペテロの姿に苦笑してしまうかもしれません。しかし、それはすでに聖書を読み、イエス様の十字架の意味を理解しているからにほかなりません。もし、私たちがペテロの立場であれば、つまり、すべてを捨ててイエス様に従っているのであれば、私たちも全く同じような反応をしたことでしょう。ペテロはイエス様の働きの傍観者ではなく当事者だったのです。ペテロはイエス様と自分は運命共同体だと思っていたわけです。ですから、イエス様が殺されてしまうことは、自分も死んでしまうのと同じだと考えたことでしょう。
それでは、私たちクリスチャンはどうでしょうか。私たちは、イエス様の十字架の傍観者になっていることはないでしょうか。私たちは、まるで家でポテトチップスを食べながら寝転んで映画を観ているように、イエス様の十字架を見ていることはないでしょうか。イエス様だけでなく、教会の教職者や宣教師の働きを、映画の登場人物を応援するような感覚で見ていることはないでしょうか。もし、私たちがイエス様の働きの当事者という意識があれば、私たちはペテロの姿に自分を重ね合わせ、自分のことのように心を痛めることでしょう。
多くの教師は「ペテロのように人間の思いを優先させてはいけません」というような「教え」を分かち合うことでしょう。しかし、私たちが本当にペテロと自分を重ね合わせて見るときに、「わたしはペテロのように命懸けでイエス様に従っているだろうか?」「わたしは、イエス様に口ごたえするほど、真剣に歩んでいるのだろうか?」と自らに問いかけるのではないでしょうか。
もちろん、そのペテロの必死さは「人のこと(肉的な思い)」から出たもので、決して良いものではありませんでした。しかし、イエス様に適当な思いで従っている人から出る言葉や行動では絶対にないことを知りましょう。
ライフチャーチ 大谷信道


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