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2020年10月10日(土)
ヤコブの手紙 1:5-8 9貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。10富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。11太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。
【ポイント】 ①自分の「欲望」を直視し「誘惑」と戦う 1章2節の「試練」、3、4節の「忍耐」は、私たちをイエス・キリストの福音から引き離そうとする力を感じた時に、その力と戦う「試練」であり、その試練には「忍耐」が要求されることを学びました。もちろん、教会の外部からの迫害が起きた時に信仰を持ち続けること、命の危険を伴うような試練となりますし、その中で礼拝や集会を続けるためには大きな忍耐が必要となることは容易に想像できます。しかし、ヤコブの手紙全体を見ると、ヤコブが問題にしているのは必ずしも迫害ではないことが分かります。ちょっと先の1章14-15節を見てみましょう。「14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。15欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」ここを見ると、ヤコブは外からの攻撃ではなく、クリスチャンの内面の「欲」や心に覚える「誘惑」について問題にしていることが分かります。
「欲」「誘惑」という言葉を聞くと、不品行を伴う「情欲」や、物質主義的な「欲望」を想像しがちですが、ヤコブの手紙全体を見ると問題の中心はそこではないことに気が付きます。ヤコブが様々な教会から報告を受けたり、実際に見聞きしている問題は、教会内の「差別」であると思われます。その典型例は、教会の中で経済的に豊かな人が、貧しいメンバーを蔑んだり、その現象を当然のことのように放置したりすることでした。ヤコブは「兄弟」という呼びかけを多用していますが、兄弟姉妹の交わりとはかけ離れた、差別的な人間関係が常態化している教会に対して、彼らが主にある兄弟姉妹であることを思い起こさせたいとい意図があったのではないかと考えられます。
ここでの「欲」とは、自分が他の人よりも高い地位にいたい、より強い権力を得たい、より多くの尊敬を得たいという欲なのです。そして「誘惑」とは、それが主の前では間違っていることを知っていながら、経済的に豊かな人、高い身分の人が、それらの欲を満たしたいと思ってしまう誘惑なのです。そもそも、当時の社会では、教会から一歩外に出れば、富や身分による差別が当然の社会だったわけですから、クリスチャンになっても金持ちが貧しい人と兄弟姉妹として愛し合うことは、容易なことではなかったことが想像できます。
驚くべきことに、現代の教会においても、経済的に豊かな人(高額献金者)が教会の中で大きな発言権を持っていたり、信仰の成熟とは関係なく、社会的に地位が高いと思われている人を執事(役員)として選出することが当然であるというような空気が教会の中で流れていたりするのです。
ですから、富や高い地を持つ人ほど、大きな「誘惑」を受けているということなのです。その「誘惑」と戦おうをする人は「試練」を覚えるでしょうし、主にある謙虚さ、謙遜さを保つためには、大きな忍耐が必要とされるのです。そして「試練」や「忍耐」を覚えている人は、主の御心を行おうとしているがゆえにそれらを覚えているわけですから、ヤコブはそれを「喜び」と思うようにと教えているわけです。
教会全体が、この誘惑(試練)と忍耐強く戦うことは、イエス様の命令である「相互愛」の実践であり、この戦い無くしてはキリストのからだが健全に建て上げられることはないのです。つまり、これは個人の心の中の戦いであるのですが、その目的は教会の建て上げなのです。
ライフチャーチ 大谷信道