デイリーディボーション 10月13日(金)

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デイリーディボーション 10月13日(金)

2017年10月13日(金)

【通読】
マタイの福音書 23:1-7
1そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、2こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。5彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。6また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、7広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。

【ポイント】
①律法学者、パリサイ人の良いところ
イエス様は、律法学者やパリサイ人を完全に否定しているわけではありません。1節で「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。」と教えられているとおりです。イエス様はパリサイ人たちが聖書を大切にする姿勢は大いに評価されていたということです。

ただ、イエス様がパリサイ人の教えの全てを肯定しているわけではありません。例えばマルコ7章8節などの「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」というイエス様のことばから、パリサイ人たちが過去の有名な教師たちの教えを聖書同等かそれ以上の権威があるものからのように教えていることについては、厳しく批判していることが分かります。

②律法学者、パリサイ人の問題
パリサイ派の「聖書を大切にしよう!」という純粋な思いは時代の変遷とともに、世俗化したり、形骸化してしまった部分があるようです。1世紀のパリサイ人の姿は、イエス様の目には今日の箇所のように映っていたのです。例えば、現代の社会の中に見ることができる、より強い権力を求める人々の醜い姿と何ら変わらないような状況が、ユダヤ教の教師たちの間に起きていたのです。

③他人事ではない
大切なことは、私たちクリスチャンも、パリサイ人や律法学者と同じ人間であり、同じ罪の性質、同じ弱さを持っていることを認める事です。「自分は、愚かなパリサイ人、律法学者とは違うと!」と思い込むのではなく、自分の心の奥底にも「偉くなりたい」「先生と呼ばれたい。」「注目を集めたい」というような欲求が確実に存在していることを自覚することです。自分の弱さの自覚がなければ、誘惑と戦うことができないからです。

ですから、他人事と思わず、自分の心の中を点検してみましょう。自分も同じ弱さを持っていることに気がつくことでしょう。

ライフチャーチ
大谷信道


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