デイリーディボーション 10月14日(土)

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デイリーディボーション 10月14日(土)

2017年10月14日(土)

【通読】
マタイの福音書 23:8-14
8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。9あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。11あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。12だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。13わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。

【ポイント】
①「先生(われらの父、師)」ということばを使ってはならない?
この箇所から、「私たちクリスチャンは『先生』ということばを使うべきではない!」と主張する人がいます。私の知る範囲では、聖書を自由に解釈することを大切にしている、いわゆる「自由主義」的な立場を取る人たちにその傾向が強いようです。ある牧師の集まりで「この会の中では『先生』という呼び方を使わないようにしましょう!」と提案された方がいて、大変窮屈な思いをしたことがあります。他の牧師をどのように呼ぼうが、それこそ個人の自由ではないかと思ってしまいました。他の多くの箇所については自由に解釈するのに、この箇所だけ文字通りに理解しているのは興味深い事です。

しかし、本当に「先生」ということばを使うべきでは無いのでしょうか。イエス様は日本特有の使われ方をしてきた「先生」という日本語の使用を禁じられたのでしょうか。ちょっと考えれば、決してそうでは無いことが分かります。イエス様は「先生」という日本語があてられている「ラビ」というヘブライ語について注意をされたのです。

「ラビ」ということばは、直訳すると「私の主」という意味ですが、一般的には「多くの尊敬を集めている律法の教師」、または「律法の学校の校長」に用いられる敬称、称号だったようです。この背景にある問題は、伝統的にユダヤ人が「ラビ」に必要以上の権威を与えてしまった結果、歴代のラビ達が残した「言い伝え」に聖書と同等、時には、それ以上の権威を与えてしまったことにあります(参:マタイ15章)。そのような伝統の中にあって、恐らくイエス様の時代の「ラビ」達の中にも権威主義的で、大変偉そうな人が沢山いたのでしょう。

ですから、イエス様は、偉そうなにしているラビ達、権威を振りかざしているラビ達に対して、「威張ってはならない」「偉そうにしてはならない」と注意をされたのです。つまり、究極的には「ラビ」という称号についてではなく、彼らの偉そうな態度を注意されたのです。

②私たちに対する警告でもある
現代のキリスト教会についても同じ警告を受けています。つまり、教会のリーダの役割が与えられている牧師、伝道師、主事、教師なども、偉そうにしてはならないということです。また、いかに豊かな賜物が与えられている牧師がいたとしても、その人をアイドルのように扱ったり、特別な称号を与えたりしてはならないということです。「偉そうな人」という構造は一人では成立しません。「偉ぶる人」と「取り巻き」によって権威主義的な構造が出来上がります。傲慢なリーダーを作り上げている責任は本だけでなく、周りの人にもあるのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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