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2021年10月15日(金)
マタイの福音書 11:15-19 15耳のある者は聞きなさい。16この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、17こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』18ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、19人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」
【ポイント】 ①今の時代も同じ 今日のイエス様のたとえ話も、ちょと分かりにくいと感じるかもしれません。ただ、ちょっと考えれば難しいことはありません。「笛を吹いている子どもたち」は「イエス様とヨハネ」ですね。「笛を吹いても踊らない、弔いの歌を歌っても悲しまない他の子どもたち」はユダヤ人ということです。
また、ここには一つの対称があります。笛を吹いている子どもたちは、踊りたくなるような陽気な曲を吹いても「明るすぎる」と文句を言われ、弔いの歌のような悲しい曲を吹いても「暗すぎる」と文句を言われてしまうということなのです。つまり、一方の子どもたちは、何をやったとしても結局は文句を言い、一緒に音楽を楽しむつもりはないということなのです。その対称は、18節と19節に記されているヨハネとイエス様のミニストリーに対する人々の反応を指しているわけです。バプテスマのヨハネたちのある種ストイックな生き方を貫いている姿に文句を言う人たちは、イエス様のすべての人を愛され、ともに食事をする姿にも文句を言うわけです。
笛を吹いて歌ったり、踊ったりしている子どもたちには「喜び」「楽しさ」「自由さ」があるわけですが、笛の演奏に乗ってこない子どもたちにはそのような姿を見出すことができないという点が、イエス様のユダヤ人たちに対する憂いだったのだと思います。律法や教師たちの伝統を熱心に守って生きているユダヤ人が、神様が与えようとされている本当の喜びや祝福知らずに生きている姿を見て、イエス様は心を痛められたのです。
それでは、現代のクリスチャンは、イエス様が与えようとしている「喜び」「楽しさ」「自由さ」を味わっているのでしょうか。イエス様の福音が、イエス様の意図している通りに伝えられているのでしょうか?「それは、自分が求めているものとは違う!」といって、自分の慣れ親しんだ宗教から離れようとしないクリスチャンはいないでしょうか。「聖書を大切にしよう!」という呼びかけに、興味を覚えたり、心を動かされるクリスチャンがどれほどいるでしょうか。笛を吹いても踊らない子どもたちは、決して他人事ではないのです。
ライフチャーチ 大谷信道