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2021年10月16日(土)
マタイの福音書 11:20-24 20それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。21「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。22しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。23カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。24しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
【ポイント】 ①イエス様が求められた悔い改めとは? イエス様の福音が正確につたえられれば、イエス様を信じるのに難しさを覚える人が大勢いるはずです。それは「狭い門」のたとえによってイエス様が明らかにされている事実でもあります。
それでは、20節の「悔い改めなかった」とは、具体的に人々のどのような反応を指しているのでしょうか。多くの人は、悔い改めた姿が「道徳的な生き方」「律法を守る生き方」「ユダヤ教(宗教)に熱心な生き方」などを想像するかもしれません。しかし、イエス様が人々に期待した「悔い改め」とは、そのような生き方なのでしょうか。このポイントについて正しく理解していなければ、私たちの歩みも間違った方向に行きかねないのです。
マタイの福音書には記載されていませんが、イエス様の語られた「放蕩息子」のたとえは、時代や地域などを越え、すべての人間が理解しやすい福音メッセージだと思います。イエス様の求められた悔い改めとは、天の父の愛を知り、自分が天の父の愛の中でしか平安や満たしを体験することができないことを知ることです。多くの人は、自分の欲求(肉の欲)を満たすことによって自分は幸せになれる信じていますが、欲求を満たすことを追求して本当の幸せを手に入れた人はいないのです。なぜなら、人間の欲求には終わりがないからです。
一方、放蕩息子の兄は、一見すると真面目で、正しく生きていたように見えます。多くの人は、悔い改めるとは、兄のような生き方をするのであろうと思い込んでしまいます。しかし、内面をよく見ると、そこに父対する愛も感謝もないのです。教会に熱心に通い、奉仕に励んでいたとしても、それが神様への愛、感謝からあふれ出たものでなければ、私たちの信仰は放蕩息子の兄のようになってしまうのです。
「ソドム」が参照されているので、コラジン、ベツサイダ、ツロ、シドン、カペナウムの町で、ひどい不品行が横行していたために、イエス様が嘆かれたと単純に考えてはなりません。不品行はどの時代のどの地域でも行われていたことでしょう。しかし、イエス様が常に問題にされているのは、人々の心が神様の愛から離れていることなのです。「悔い改めなさい」というメッセージには、不品行を止めなさいという命令が含まれていることは間違いありません。しかし、そこには、放蕩息子のように、神様の愛を知り、神様を愛することの素晴らしさを知らないすべての人に、神様の愛に立ち返る命令が含まれていることを忘れてはならないのです。
ライフチャーチ 大谷信道