デイリーディボーション 10月16日(月)

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デイリーディボーション 10月16日(月)

2017年10月16日(月)

【通読】
マタイの福音書 22:1-14
1イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。2「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
3王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。4それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』5ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、6そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。7王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。8そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。9だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』10それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。11ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。12そこで、王は言った。『{友よ。}あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。13そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。14招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

【ポイント】
※先週、間違いで22章を飛ばし23章に進んでしまったので飛んでしまったので、今週は22章に戻ります。

①たとえの意味を理解する
「王子」はイエス様ですね。そして「王」は天の父です。先に招待されていた「客」はイスラエルの民で、後から招かれた客は「異邦人」です。このたとえ話は、イエス様をキリストとして認めようとしないイスラエルの民にどのような結末が待っているのかを知らせるための警告だということが分かります。

②ポイントは神様との関係
王子の結婚を祝福しないということは、その父である王への非礼、侮辱を意味します。そして、そのような失礼な態度の原因が、人々の王に対する愛、尊敬の欠如にあることは誰の目にも明らかですね。反対に言えば、もし人々が王を敬愛していたのであれば、その王子の結婚式は大きな喜びの出来事であり、万難を排して参列するはずなのです。

後から招かれた客で「婚礼の礼服を着ていない者」が出てきます。この人に対して王が「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」と大変厳しい命令を下します。この箇所を正しく理解していない人は「自分で招いておいたのにひどい!」と感じるかもしれません。

しかし、ここでも問題は、礼服を着てこなかった人部の天の父、王子への「愛」「尊敬」の欠如であることを理解しなければなりません。研究者の中には、当時王が婚礼に人を招く時には、衣装を提供していたと考えている人もいるようです。もし、そうであれば、この人は王からいただいた礼服をあえて着てこなかったことになります。それは、王に対する敬愛の念の欠如だけでなく、積極的な侮辱を意味するようなことだったと言えます。さらに、王からの「{友よ。}あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。」という優しい問いかけに対して黙していることからも、この人物が意図的に礼服を着てこなかったことを推察できます。

③天の父に対する愛がすべて
私たちの救い、罪の赦し、永遠のいのちを決定づける要素は「天の父(御子イエス・キリスト)への愛」以外に一切ないことを覚えておきましょう。ここに余計な「儀式」だったり、「教え」だったりを付け加えるときに、それはもはやキリスト教本来の信仰ではなくなってしまうのです。イエス様の時代のユダヤ教がこの問題を犯してしまっていたのです。儀式・伝統の保持、神殿の維持・管理、学閥、派閥争いなどを熱心に行っていくことが「信仰」だと勘違いしてしまったのです。現代のキリスト教界(カトリック・プロテスタントの区別なく)にも同じような傾向を見ることができます。「宗教熱心さ」が「神を愛する熱心さ」から離れた時に、私たちの信仰は不純なものへと変質してしまうことを覚えておきましょう。

ライフチャーチ
大谷信道


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