誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2020年10月17日(土)
ヤコブの手紙 1:22 22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
【ポイント】 ①どの「みことば」を実践すればよいのでしょうか? 一言でいえば、神様に対しては『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(申命記6:5、マタイ22:37)ということになります。生活におけるあらゆる場面で「何が神を愛し、神に喜ばれることなのか?」ということを、文字通り、心、思い、知力を尽くして考え、実行することが求められているということです。なぜ、そこまでしなくてはならないのでしょうか? それは、罰を受けないためでも、天国に入るためでもありません。簡単に言えば「だって、神様のこと大好きなんでしょ。だったら当たり前じゃない?」ということになるわけです。すべては、神様の愛への応答なのです。
神様への愛の応答について、次にイエス様が重要視していることは『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』(レビ19:18、マタイ22:39)という聖書の戒めです。ここで重要なことは、私たちは隣人のために隣人を愛するのではなく、神様のために、神様に愛を表すために隣人を愛するのです。その理由も極めて明確です。主が罪深い私たちを愛してくださっているからです(ヨハネ13:34、15:12)。神様の愛を受けているのに隣人を愛さない、自分の罪は赦されているのに、隣人の罪を赦さないということが、主の目にどのように映るのかを考えれば、やはり「だって、神様のこと大好きなんでしょ。だったら当たり前じゃない?」というような命令となるのです。
イエス様は「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と教えられていますから、私たちが聖書のどのみことばを実践したとしても、その目的は、この二つの戒め以外にあってはならないのです。反対に、自分では聖書のみことばを実践しているという自負があったとしても、結果として神様との愛の関係が深められ、隣人と愛の実が結んでいなければ、全くの的外れな実践、独りよがりなみことばの実践になってしまうのです。そのような状況が、各地の教会に散見されるので、ヤコブはこの後の1章26節で「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」と警鐘を鳴らしているのです。
あなたの信仰の歩みは「むなしい宗教」になってはいませんか?
ライフチャーチ 大谷信道