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2017年10月17日(火)
【通読】
マタイの福音書 22:1-14
15そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。16彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。17それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」18イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。19納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。20そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」21彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」22彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。
【ポイント】
①「大人のいじわる」に注意
あえて「いじわる」という簡単なことばを使いました。しかし、今日の箇所でパリサイ人たちがしていることは、イエス様に対する「いじわる」ですね。マタイが15節でパリサイ人たちがイエス様を「わな」にかけようとしていたと説明してくれているので良く分かりますが、もしこの説明がなければ、多くの人は単にパリサイ人たちがイエス様に質問をしているとしか思わないことでしょう。
私たちの日常生活のなかでも、悪意を全く見せない、場合によっては、大変良い事をしているように見せかけながら相手を非難したり、陥れようとする「いじわる」な行為が行われています。残念なことに、気をつけないと教会の中でも「いじわる」が横行してしまうケースがあるようです。その本質は「こどものいじわる」と何も変わりません。自分の思い通りにならないこと、相手が自分の言うことを聞かないこと、自分が攻撃された感じることなどに対して悪意をもって報復してしまうのです。しかし、大人は「いじわるが良くない」と頭では知っていますので、「いじわるに見えないいじわる」で相手に仕返しをするのです。そのような意味で、「大人のいじわる」は非常に質が悪いのです。
②自分の「いじわる」に気が付かない人も
さらに問題なのは、「自分はいじわるなんかしていない!」と思い込みたいあまりに、自分の相手に対する悪意に気が付かなくなってしまう人がいるということです。このような人は様々な「正論」で相手を諭そうとしたり、教えようとしたりします。「私はあくまでもあなたに正しいことを教えているだけ」と本気で思い込んでしまい、自分の心の中にある相手に対する悪意、苦々しい思いにフタをして見ないようにしてしまうのです。そうすると自分のいじわるさが見えなくなってしまうのです。
ですから、私たちは自分の心の中を正直に見つめることが大切なのです。しかも、それを「神様の視点」で行なうのです。「あなたの中にいじわるな思いは一片もないの?」と、神様から問いかけられているように、自分に問うのです。クリスチャンであっても、夫婦の関わり、親子の関わり、友達との関わりの中で相手に対する「いじわる」をしてしまうことがあるのです。そのような思いが心の中に起こらないクリスチャンなどこの世に一人もいないのです。大切なことは、自分もそのような弱さを持っていること、気をつけないと相手に「いじわる」をしてしまうことがあることを正直に認めることなのです。(参:1ヨハネ1-2章)
ライフチャーチ
大谷信道