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2017年10月18日(水)
【通読】
マタイの福音書 22:22-33
23その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、24言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。25ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。26次男も三男も、七人とも同じようになりました。27そして、最後に、その女も死にました。28すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」29しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。30復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の{神の}御使いたちのようです。31それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。32『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」33群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
【ポイント】
①サドカイ人の「いじわる」
今度は、サドカイ人たちがイエス様を陥れるために来ました。昨日のパリサイ人もそうだったのですが、サドカイ人たちもイエス様に向かって「先生」と呼びかけてから質問を始めます。先週、23章7、8節で「先生」とは、大きな尊敬を集めている律法学者、またはユダヤ教の学校の校長に用いられる敬称であることを学びました。イエス様を軽蔑していたパリサイ人やサドカイ人が本心から「先生」という言葉を使うはずはありません。イエス様を油断させたり、調子に乗らせたりして、不適切な発言をさせようという「悪意」の現れなのです。表向きは大変丁寧な態度を見せながら、相手を陥れようとする、いわば「大人のいじわる」を行っているのです。
②サドカイ人の質問の意図
23節にあるように、サドカイ派の教師たち「復活はない」と教えていました。彼らの特徴は次の通りです。「大部分が祭祀階級や上層階級出身者で、当時の反超自然主義者(合理主義者)を代表した。彼らは肉体の復活、未来の審判や報い、天使の実在などを認めなかった。」(チェーン式引照付き新改訳聖書より)
現代の自由主義的クリスチャンと大変似ていますね。このサドカイ人たちは、自分たちの信仰に反するコメントをエス様から引き出し、サドカイ派全体としてイエス様を糾弾することを企んでいたのです。そこで、「復活」という考え方がいかに馬鹿馬鹿しいのかということを証明するために、7人兄弟全員と順番に結婚した女性のケースを持ち出してきたのです。
③イエス様の答えに聞く
イエス様は天国についての驚くべき事実を教えられました。この教えはサドカイ人だけでなく、現代に生きる全てのクリスチャンが真剣に聞くべきものです。なぜなら、現代のクリスチャンの多くも、天国についてサドカイ人と同じような誤解をしているからです。それは、「天国は地上の生活の続き」という誤解です。天国で先に死んだ家族に合うことを強く願っているクリスチャンがたくさんいるようです(クリスチャン以外の大半の人もそのように信じているでしょう。)。しかし、イエス様は天国における夫婦、親子、家族の結びつきは、地上のそれらとは全く別物であると教えられたのです。
天の御国においては、神様が「父親」で、そこに入ることが許された人々は全員「神の子ども」となのです。つまり、そこに存在する「愛」の結びつきは、地上の「男女の関係の愛」のようなものではなく、「親が子を愛する愛」、「兄弟が互いに愛し合う愛」に近いものなのです。
事実、天国の住民は神様の子どもであるわけですから、全員が兄弟姉妹なのです。そして、天の御国での兄弟愛は、私たちが地上で体験するどのような愛よりもさらに深く、さらに純粋なものなのです。地上での家族の愛の深さ、純粋さの上限が50だととしたら、天国のでの兄弟姉妹の愛の深さ、純粋さは100(無限大?)だということなのです。
罪の性質を持ち続けながら歩む私たちの価値観を天国に当てはめてはなりません。今日のイエス様のことばから、天国で体験する神様からの愛、兄弟姉妹の愛の姿は、私たちの価値観、想像を越える、全くの別次元の素晴らしいものであることがわかるのです。
ライフチャーチ
大谷信道