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2021年10月19日(火)
マタイの福音書 11:25-28 25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。26そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。27すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
【ポイント】 ①キリスト教の宗教化によって失ってしまったもの イエス様の福音の中心は天の父(神様)と私たちの「愛の関係」です。この点について明らかにされたのは唯一の存在が御子イエス・キリストなのです。これについての1つの視点はイエス様が人々を「宗教」から解放されたというものです。なぜなら、私たちが天の父との愛の関係を結ぶことが信仰であり、救いであるとすれば、そのために必要なのは真の大祭司であるイエス様の他に何も必要ないからです。つまり、当時のユダヤ教、現代の多くの教会が有していた祭司(教職者)制度も神殿(教会堂)も土地も必要ないのです。
残念なことに、現代の多くのクリスチャンは、教会は建物や土地を所有していること、牧師や司祭の制度があることが当然だと刷り込まれています。多くの宗教が似たようなシステムを持っているので(宗教法人法の規定でもありますので)、ほとんどの人はそのことに疑問を持ちませんし、キリスト教が宗教の1つであると認識している人が大多数です。
しかし、キリスト教が宗教の1つであるという入り口が、既に間違っていることは、聖書を読めば誰にでも明らかです。現代の人が「ああ、あれはキリスト教(教会)なんだね!」と認識できる「土地・建物」「礼拝のスタイル」「牧師(祭司)制度」「教職者の衣装」などについて、イエス様が命令しているものは1つもないからです。キリスト教のシンボルが十字架だと思っている人が多いようですが、イエス様はイエス様を信じている者のシンボルは「自分の十字架を負うこと」「相互愛」であると教えられています。
マタイの福音書 16章24節 24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
ヨハネの福音書 13章35節 35もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
今日のイエス様のことばから、現代においても「宗教とはこういうものである」という既成概念を捨てられない大人たちは、イエス様の福音をそのまま理解することができていない可能性があることを覚えておきましょう。むしろ、イエス様が明らかにされたのは、幼子でも理解できる「天の父の愛」であることを思い出しましょう。
カルト宗教のようになってしまっている教会、商業化しライブハウスのようになっている教会、学問化し古典文学研究会、哲学研究会のようになっている教会、NPO法人のように社会問題に取り組むことが中心になっている教会など、イエス様の御心とは決して思えない状態に陥っていることはないでしょうか。完全な教会は存在しません。しかし、自分の教会が、自分の教会での取り組みがイエス様の思いからはずれた「的外れ」の状態に陥っていないのか、しっかりと考えてみましょう。
ライフチャーチ 大谷信道