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2021年10月20日(水)
マタイの福音書 11:28-29 28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
【ポイント】 ①なぜ人々は「疲れ」「重荷を負っている」のか? 現代にも「疲れ」「重荷」を感じている人はたくさんいると思います。しかし、自分の感じている「疲れ」「重荷」と、イエス様がここで語られている「疲れ」「重荷」は同じなのか考えたことがあるでしょうか。もし、私たちはイエス様を愛しているのですから、愛するイエス様のことばの真意を真剣に求めることが大切ですね。
イエス様が指摘している「疲れ」「重荷」は、律法学者やパリサイ人がユダヤ人に押し付けている「律法主義」からくるものです。彼らの教える律法は、神様の本来の意図(御心)から離れ、人々が祝福や喜びを感じるものではなく「疲れ」を覚え、「重荷」としか感じられないようなものになってしまっていたのです。このことは、マタイ23章3-4節を見ると明らかです。
マタイの福音書 23章3-4節 3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。 4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
このイエス様の招きは、聖書も神様も知らない「未信者」や「異邦人」に向けられたものではありません。神様を信じ、神様に忠実に生きたいと思っているユダヤ人たちに向けての招きです。しかし、律法学者やパリサイ人たちが作り上げた「宗教」によって、人々は疲れ果てていたのです。この姿は、マタイ9章36節に記されていますね。
マタイの福音書 9章36節 36また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
イエス様はこの状態が異常であり、決して天の父の御心ではないことを教えられたのです。
現代のキリスト教会はどうでしょうか。教会に時々しか顔を出さず、聖書も読まないけれども、自分はクリスチャンだと思っている人が世界にはたくさんいると思いますが、そのような人々は信仰の歩みに「疲れ」や「重荷」を感じることはないでしょう。しかし、週に何度も教会に通い、熱心に奉仕をしているクリスチャンの中には、イエス様の時代の律法主義と大変良く似た現象が起きている可能性があります。神様を愛し、神様に忠実に生きて行きたいと思っていますが、周囲からの「信仰的なクリスチャンはこのように信じ、生きるべき」というような同調圧力を感じ、教会生活に「疲れ」や「重荷」を覚えている人は少なくないのです。
今日のイエス様のことばは、まさにそのような人々に向けられた招きなのです。律法主義的でイエス様との愛の関係が中心になっていない信仰生活は、人々を疲れさせることになってしまうからです。
あなたは大丈夫ですか?
ライフチャーチ 大谷信道