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2017年10月20日(金)
【通読】
マタイの福音書 23:1-12
1そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、2こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。3ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。5彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。6また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、7広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
9あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。11あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。12だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
【ポイント】
①偉い人が好きですか?
先週の金曜日と土曜日にこの箇所について学びましたので、今日は補足的な学びとします。
土曜日の最後にも触れましたが、律法学者、パリサイ人達が「。5彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。6また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、7広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」となってしまった原因は彼らだけにあるのではありません。周りの人が彼らを「偉い先生」に祭り上げてしまったのです。つまり、群衆も「偉い人」が好きなのです。
現代のクリスチャンにもその傾向があることは否めません。有名な牧師のメッセージをインターネットで聞いたり、著書を集めたりするのが好きな人は沢山います。教会の伝道集会、兄弟の聖会(イベント)に有名な牧師を呼べば、沢山の人が集まるようです。もちろん、その牧師が有名になったのには理由があるわけですから、そのような人たちから普段聞くことができないようなメッセージを聞くことができるかもしれません。しかし、人々が自分の理想像を押し付け、心酔していくような不健全な関係ができてしまっているケースがあることも事実です。恐らく、イエス様の時代のパリサイ人、律法学者も最初から偉そうだったわけではなく、周りの人からチヤホヤされたり、持ち上げられたりして、いつの間にか偉そうになってしまったという側面もあると思います。
②問題はキリストとの関係の浅さ
この問題の本質について、イエス様は明確に教えられています。「10また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」私たちが、イエス様を主、王として受け入れ、そのリーダーシップに従っていれば、私たちは別のリーダー(ヒーロー、アイドル)の必要を感じないはずなのです。イエス様とそのような関係を築くことができていない人は、イエス様に求めるべき資質を地上の人間に求めてしまうのです。
この問題は思っている以上に深刻です。夫婦の例にたとえて考えてみましょう。自分の夫、妻との関係に満足できない人の中には、別の誰かに本来自分の夫や妻に期待すべき関係を求めることがあります。誰でもこのような状態が不健全、非倫理的なものであることを知っていますね。ところが、イエス様の時代の民衆も、現代のクリスチャンも同じような過ちを犯してしまっていることがあるのです。さらに深刻な問題は、多くの人が自分の問題に気がついていないことです。有名な牧師や伝道者に熱心になることが、信仰熱心だと勘違いしてしまっているのでしょう。
私たちの「師(主、ヒーロー、先生)」は天の父(イエス・キリスト)一人です。それ以外の全ての人類は等しく不完全で、罪深い者なのです。この一点を理解していれば、「偉くなりたい」「偉い人が好き」と言うような感覚から解放されるはずなのです。あなたは大丈夫ですか?
ライフチャーチ
大谷信道