デイリーディボーション 10月21日(金)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 10月21日(金)

2022年10月21日(金)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 5章1-2節 3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
【ポイント】 ①「患難」という現実の中で信仰を弱らせない この世の多くの人は、宗教を信じれば社会の中での苦しみや辛さから解放されると信じています。人々が宗教を信じるときに起こるであろうと思い描いている(期待している)具体的な内容(ご利益)は「それが無くて困っていること」、例えば「お金」「健康」「仕事(成功・名誉)」「良い人間関係」などが、与えられることです。
この信仰に対する間違った思い込みが、キリスト教の信仰に中に入り込んでしまうと、キリスト教の信仰も他の宗教と大差ない者になってしまいます。イエス・キリストへの信仰の出発地点が「ご利益」になってしまうと、そもそも入り口が全く間違っていることになります。入り口を間違ってしまえば、その後のすべてが間違いになってしまいます。残念ながら、そのことに気が付かずに、何年間もクリスチャンとして歩んでいる人が少なくないのです。
人間が困っているときに助けを求めるのは当然のことですし、先に述べたようなご利益を求めることも不思議ではないわけですが、そこに何の問題があるのでしょうか。それは、ご利益を求めるということは、自分の願いを神様に実現させようとする極めて利己主義的な行為だからです。自分が神と信じている存在が与えようとしている幸せではなく、人間が自分勝手に思い描いた幸せを与えてくれるように神様に要求しているのです。神様の前にひれ伏し、いかにも謙虚そうな態度を取りますが、結局のところ自分の要求に従うことを神に求めているだけなのです。言ってみれば、信仰という名の「ゴマすり」ですね。
ですから、残念ながら多くのクリスチャンが患難や困難に直面したときに「こんなはずじゃなかった」「これでは信じた意味がなかった」と感じ、キリストへの信仰・信頼を失ってしまうのです。そもそも、間違った信仰(信仰ではないもの)だったわけなので、それが失われてしまうのは当然なのですが、私たちの主にある兄弟姉妹の中にそのような人がいたとしたら、心が痛みます。
今日のパウロのことばから、私たちは患難に遭ったときに信仰が試され、信仰が強められることが分かります。私たちの信仰の内に不純なものがあれば、患難によって精錬され、信仰の中で、キリストのとの愛の関係以外の部分がそぎ落とされていくのです。そして、私たちの信仰の中心が祈願の成就(欲望が満たされること)であれば、患難に遭遇したときに失望に終わりますが、私たちの信仰の中心がキリストとの愛の関係であれば、その愛が無くなることは絶対にないので、私たちの希望が失望に終わることはないのです。
ライフチャーチ 大谷 信道


side_worship side_info