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2017年10月24日(火)
【通読】
マタイの福音書 23:22-23
23わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。24目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。
【ポイント】
①惜しんでいないか?
時々、「愛は目でみることも、数字で測ることもできない!」という人がいますが、それは全くの間違いです。なぜなら、例えばヨハネ3章16節にこのように記されているからです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された・・・。」
私たちの愛は相手に対して与えるものの大きさによって測ることができるのです。イエス様がヨハネ15章13節で「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 」と教えられている通りなのです。
同じように、私たちの神様に対する愛も、私たちが神様に与える(捧げる)ものによって測ることができます。憐れみ深い神様は、私たちに自分の命や全財産を差し出すことは求められませんでした。神様が求められたのは、収穫(収入)の十分の一だけです。もし、私たちがこの十分の一を惜しむとしたら、私たちが本当に神様を愛しているということができるのでしょうか。誰でも、口先で「神を愛する」と言うができますし、心の中で「神様を愛しているつもり」になることもできます。しかし、神様の愛は「口先」、「つもり」の愛ではなく、「与える」愛であることを覚えておきましょう。
②惜しまなければ良いのか?
律法学者、パリサイ人は穀物、野菜などの主要な産物だけでなく、収穫量も少なく、庭先で育つようなハーブ類まで正確に十分の一を測り、捧げていたようです。しかし、彼らの問題は惜しまずに、正確に十分の一をささげていることを誇っていたのです。または、「私は超正確に十分の一を収めているから、私の信仰は素晴らしいものだ。」と思い込んでいたのです。しかし、イエス様は確かに十分の一は極めて重要なものであるけれども、それ以上に重要なものがあると教えられたのです。それは「正義とあわれみと誠実」です。
③二者択一ではない
それでは、イエス様は「正義とあわれみと誠実」があれば、十分の一を行わなくても良いと教えられたのでしょうか。23節を注意深く読めば、そうではないことが明らかですね。イエス様はその両方、つまり神様を愛すること、隣人を愛すること(マタイ22:36-40)の両方を誠実に行っていくことを求められたのです。
ライフチャーチ
大谷信道