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2017年10月25日(水)
【通読】
マタイの福音書 23:25-28
25わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。26目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。27わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。28そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
【ポイント】
①問題も問題の解決方法も簡単
律法学者、パリサイ人の問題は単純です。生きている神様との愛の関わりが欠落していることです。自分の心の奥底まですべてお見通しの神様が共におられること、天の父がそのような不完全な者を愛し、忍耐強く導かれていることを無視してることです。パリサイ人、律法学者は神の名を語りながら、神について教えながら、神様の臨在を認め、誠実に関わり、愛していくという最も重要な部分が欠落してしまっていたのです。
さらに、律法学者、パリサイ人の最大の問題は、自分たちの信仰がそのような状態になってしまっていることを認めず、むしろ自分たちは「信仰的」であると言い張ることだと思います。ですから、バプテスマのヨハネもイエス様も人々の悔い改めを求めたのです。つまり、神様が自分の不完全さをすべてご存知であることを認めること、自分が神様の完全さの前では全くの罪人であることを認めること、神様の恵み、憐れみがなければ、ただ永遠に滅びるべき存在であることを認めることです。これが、神様と人間の正しい関係なのであり、この関係に生きることこそが全ての問題の解決策なのです。
この問題解決は別の言い方では「神様を愛する」となります。非常に簡単ですね。
②簡単→集中
神様と愛の関係を築くことが全ての解決策であることが分かりました。しかし、たが「簡単」で終わらせてはなりません。簡単であるからこそ、深めていくことができるからです。つまり、私たちに求められていることは「神様」がどのような方であるのかをとことん追求する事です。さらに「愛」という聖書のことばが実際にどのような意味を持っているのか、自分の日々の行動の一つ一つが神様を愛することにつながっているのかを検証することです。この2点だけに集中すれば良いのです。
③他人事ではない
現代の教会、クリスチャンの歩みも、余計なことばかりが増え、複雑化していることが多いようです。建物の建築、維持、年間行事・イベント、様々なミニストリー・プログラム。このようなものに忙しく従事することが信仰生活だと思いこんでしまっているクリスチャンはいないでしょうか。確かに、その忙しさの中に充実感、楽しさを覚えている人も沢山いることでしょう。しかし、そのような忙しの中で、神様の愛をさらに深く知ること、神様をさらに深く愛すること、その愛をもって家族、主にある兄弟を愛することがなおざりになっているとしたらどうでしょうか。パリサイ人の問題は決して他人事ではないのです。
ライフチャーチ
大谷信道