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2022年10月25日(火)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 5章6-8節 6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
【ポイント】 ①「頭(理性)」と「心(感情)」でキリストの恵みを味わう イエス・キリストによって明らかにされた神様の私たちに対する「愛」と「恵み」について語られています。7節はちょっと分かりにくい個所がありますが、罪人(不敬虔な者)のために死んでくださる人などいないということです。しかし、イエス様は私たちの罪のために死んでくださったのです。
みなさんは、イエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださったという「事実」を「愛」として受け取っているでしょうか。イエス様の十字架の事実がどれほど大きな愛なのかに気づき、生きた愛として感じ取り、味わうことができるようになるには時間がかかる場合があります。イエス様の十字架の意味を理解することは短時間でできることです。また、イエス様の十字架が自分の罪のためであったと、その事実を個人的な出来事として理解することにも多くの時間は必要ありません。しかし、イエス様の十字架が自分にとってどれほど重要な出来事であり、心の底から感謝と喜びを感じ、イエス様が地上の誰よりも自分を愛してくださっているのかをしみじみと感じるようになる期間は個人差があるようです。
イエス様の十字架の愛を受け取るためには、「頭(理性)で理解すること」と「心(感情)で受け取ること」の両方が大切になります。このどちらかが欠けても、キリストの愛を受け取ることにはなりません。そして、キリストの愛を頭と心の両方で受け取っている状態こそが「信仰」であることを覚えておきましょう。どんなにキリストの十字架について難しく説明できたとしても、その愛を受け取っていなければ「信仰」とは言えません。また、どんなに神様を愛していると心で感じていたとしても、キリストによって明らかにされた神様の真の姿(愛)を理解していなければ、ぼんやりとした自分の想像力で作り上げた神様を信じているに過ぎない可能性があるのです。神様はご自身の私たちに対する愛の証拠をイエス様の十字架を通してはっきりと示してくださいました。その愛は私たち人間が頭と心の両方で受け取ることができる愛だということです。
神様は、私たちが「頭(理性)」と「心(感情)」の両方で神様の愛を知ることができるように、その器としてパウロを選ばれました。今日の個所から、その召しに応え、熱心にキリストの愛について説明しているパウロの姿を見ることができます。
ライフチャーチ 大谷 信道