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2020年10月26日(月)
ヤコブの手紙 2:17-18 17それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。18さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
【ポイント】 ①「当たり前のこと」を「当たり前のこと」として受け入れる 信仰と愛は同義語であることは繰り返し学んでいますね。「神(キリスト)を信じる」の「信じる」の部分を「愛する」に変えたとしても、聖書のメッセージを何も変えることはありません。むしろ、聖書の教える信仰について、より具体的に理解できるのではないかと思います。この真理を明らかにされたのが、誰でもない、イエス様なのです。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)
今日のヤコブのことばは、まさに上のイエス様のみことばを説明しているだけなのです。そして、「信仰」を「愛」に変えてみれば、誰でもが簡単に理解できるシンプルで、ごく当たり前の教えであることが分かるはずです。自分の夫、妻、子どもに、口で何百回も「愛しています!」と告白したとしても、相手に仕え、励まし、いたわる行動が伴わなければ、本人がいくら「心では愛しているんだ!」と説明したとしても、私たちはその愛が偽物であると判断します。神様に対する「信仰(愛)」も同じなのです。
しかし、純粋な「信仰(愛)」があれば、私たちの行ない(生き方)が一瞬で変えられるのでしょうか。普通はそうではありません。健全な歩みをしている夫婦は、結婚式の日に感じていた愛よりも、5年、10年、20年と時間が経つにつれて愛が大きくなっていることに気が付くはずです。子どもに対する愛も、子どもが胎内に与えられた時よりも、出産のとき、またその1年後、10年後のほうが、愛が深められているはずです。聖書は、愛には大きさがあると教えています(ヨハネ15:13、エペソ3:17-19など)。「愛」は「好き・嫌い」と違い、心のスイッチをオンにしたり、オフにしたりするような性質のものではありません。愛は、私たちの意思(決意)とともに存在し続ける実態あるものであり、時間をかけて育むものでもあるのです。ですから、私たちの神様に対する愛(信仰)は、少しずつ大きくなるように育てていくものであり、それに伴い、私たちの行動(行い)も変えられていくのです。
もし、自分の信仰に行動が伴っていないと感じ、自分の信仰に落胆している人がいるとしたら、心配することはありません。神様への愛は一朝一夕には大きくなるものではありません、日々神様の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」(エペソ3:18)を知る中で、神様への愛が少しずつ大きくされ、行動も変えられていくのです。
ライフチャーチ 大谷信道