デイリーディボーション 10月26日(木)

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デイリーディボーション 10月26日(木)

2017年10月26日(木)

【通読】
マタイの福音書 23:29-32
29わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、30『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。31こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。32おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。 ↓

【ポイント】
①歴史から学ぶ
何事においても、歴史から学ぶこと、特に先人の失敗から学ぶことが重要であることは誰でもが知っていることです。有名な格言「歴史は繰り返す」とは古代ローマ時代の歴史家クルティウス・ルフスの言葉だと言われています。イエス様も、律法学者、パリサイ人は自分の祖先たちが預言者を迫害したり、殺したりした歴史から何も学んでいないこと、同じことを繰り返そうとしていることを指摘されたのです。30節から、パリサイ人、律法学者達が、過去の預言者の迫害、殺害の出来事が自分たちとは全く関係ない出来事であると考えていること、さらに、自分達が同じ間違いを犯すはずがないと信じ込んでいることが分かります。

私達クリスチャンはどうでしょうか。「自分たちは律法学者やパリサイ人と同じ間違いを犯すはずなどない。」と思い込んでいる人が沢山いるのではないでしょうか。しかし、そのような感覚こそが、過去の過ちを繰り返す原因になっていることに気が付かなければなりません。律法学者、パリサイ人たちは、サドカイ派の人々に代表されるような、聖書(律法)をいい加減に解釈する人々に対して、聖書(律法)に立ち返る重要さを訴えていたグループです。過去のラビたちの教えに大きな権威を認めてした点は問題でしたが、聖書(律法)を何よりも大切なものした信仰は、現代の聖書的な信仰を大切にするクリスチャンの姿勢と大変良く似ているのです。そして、自分たちの信仰こそ純粋なものであると自負している点も大変よく似ています。多くの共通点があるからこそ、聖書的であることを大切にするクリスチャンは、自分たちが律法学者、パリサイ人が犯してしまった失敗を繰り返してしまう可能性があることを素直に認めることが必要なのです。

パリサイ人たちが、病人、罪人を排除したように、現代の聖書的であることを大切にするクリスチャンの中には、例えば同性愛(性同一性障害)の問題を「聖書的には罪である」と一蹴してしまうような傾向があります。罪人という点では、私の全てが神様の恵みによって赦されている罪人です。そして聖書を読めば、イエス様こそ、そのような問題に苦しむ人に寄り添われたことが明らかです。にもかかわらず、特定の人たちに「罪人」というレッテルを貼ってしまうようなことを「聖書的」であることを自負しているクリスチャンが行っている現実があるのです。パリサイ人、律法学者とそっくりではないでしょうか。

イエス様がマタイ5章で「18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
」と教えられていますから、イエス様を信じる私達が聖書に忠実に歩むことは極めて重要です。しかし、「聖書的」であることと「律法主義」は全く別物であることは、罪人に寄り添われたイエス様の歩みを見れば明らかですね。

ライフチャーチ
大谷信道


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