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2023年10月3日(火)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 2:8-11 8この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」10神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。11いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
①イエス・キリストの福音から「この世の知恵」を排除する この世で何らかの成功を収めたいと思うならば、他の人よりも多くの努力や工夫が必要です。クリスチャンになったとしても、この世に生きる限り、この原則は変わることはありません。仕事においても、多くの収入を望むのであれば、他の人よりも多くの労働が必要になるわけです。基本的に、多く働いた者がより多くの報酬を得、少なく働いた者がより少ない報酬を得るというのがこの世でのルールなわけです。
しかし、救いや神の義については、この世とは全く違うルールがあります。それは「恵み」というルールです。ローマ人への手紙4章には次のように記されています。「3聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた』とあります。4働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
ところが、この世に属している人間は、神様の恵みを不公平だと感じます。マタイの福音書20章のぶどう園たとえ話では、朝から働いた者も、午後5時から働いた者も同じ賃金が支払われたときに、朝から働いていた労働者が主人に文句を言い、主人は次にように答えました。「13しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。14自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。15自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』私たちクリスチャンは、私たちの努力、行ない、働き応じた報酬としてではなく、神様の恵み(気前の良さ)により、救われ、義とされています。しかし、この世の人間(支配者)は、そのような仕組みは不公平で、馬鹿げたものだと感じるのです。
実は、この問題の一番の問題は、この世の人間(支配者)が福音を受け入れないことではありません。恵みによって救われたはずのクリスチャンが、恵みを忘れ、行ないベースの信仰に先祖返り(ユダヤ教返り?)してしまうことが、極めて大きな問題なのです。具体的には、教会の中に、行ないに自信がある人が自分の信仰を誇ったり、信徒の間で信仰についての比較、競争、さばき合いなどが起きてしまうのです。さらに、他人ではなく、自分が自分の行いの無さをさばき、自分に不信仰というレッテルを貼り始める人も起きてしまいます。このような状況は、イエス様の十字架を空しいものにしてしまうのです。
罪の性質、肉の性質を持つ私たち人間は、努力した者がその報いを得るべきであるという考え方が正しく、公平であると刷り込まれています。ですから、そこから離れ、神様の恵みの中に生きることが大変難しいのです。しかし、聖書には恵みについての様々な例え話や説明が分かりやすく記されています。自分の感覚、この世の価値観に支配されることなく、神様のみことばを信頼しましょう。私たちに与えられている御霊は、必ず私たちを助け、真理に導いてくれるのです。
ヨハネの福音書 16章13節 13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
ライフチャーチ 大谷 信道