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2022年10月4日(火)
ローマ人への手紙 4章1-8節 1それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。2もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。3聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。4働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。6ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。7「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。8主が罪を認めない人は幸いである。」
【ポイント】 ①恵の理解を妨げているのはあなたの「セコさ」かも? 残念ながら「神様の恵み」の中に生きることができていないクリスチャンがたくさんいるようです。恵みの中に生きているか否かをチェックする簡単な方法は、あなたの心の中に「平安・平和」があるかどうかを確認することです。心の中に、苛立ち、不安、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心などを感じている場合には、恵みの中に生きていない可能性があります。それらの原因をいろいろと捜し、多くの場合には自分以外の誰かが問題の原因であると結論付ける人が多いかと思います。しかし、自分の周りの環境がどのようなものであったとしても、最終的にその環境に腹を立てたり、不安を覚えたりすることを決めているのは私たち自身であることを忘れてはなりません。もし、私たちが神様の恵みの中に生きていれば、自分の周りで起こる様々な出来事に対する感じ方まで変えられるはずなのです。
それでは「神様の恵み」なにが私たちの感じ方を変え、心に平安を与えてくれるのでしょうか。それは、神様がそのままのあなたを愛し、受け入れてくださっていることです。そして、あなたがその神様を信頼し、愛することを決めるだけで、私たちがは神様との愛の関係の中に導き入れられるのです。そこには、努力も修行も必要ないのです。神様は最初からあなたを愛することを決められているので、あとはあなたが神様を愛することを決めるだけで良いのです。その時に与えられる神様との愛の関係が「義」なのです。不思議なことに「義」と言う感じも「我(自分)」の上に「(神の小)羊」がいますね。キリストと私たちが愛によって一つとされている状態が「義」なのです。
ところが、努力も修行もせずに神様に義とされることが不公平であると感じたり、都合が良すぎる話だと感じたりする人がいるようです。おそらく、そのように感じる人の多くは、何事にも真面目に取り組み、努力や研鑽を重ねてきた人だと思います。真面目に働いた者が、その努力に見合う報酬を受け取るべきだと感じるのは当然のことだと思います。同じように、修行をしたものだけが悟りを得ることは当然であると考える人が多いことでしょう。しかし、実はそのような感覚の奥底にあるものは、人間の「セコさ(狭量さ)」なのです。努力もせずに良いもの手に入れる人に対して「ねたみ」を覚えてしまうのです。
私たちは神様の寛大さを見誤ってはなりません。神様は、私たちにふさわしくないものを気前よく与えてくださる寛大で寛容な方なのです。この神様の寛大さ、寛容さを疑い、自分の感覚だけで考えると「信仰による義」は、うまい儲け話(詐欺)のように感じてしまうかもしれません。神様が私たちに求めているのは「愛」だけなのです。神様は損得勘定や、商売で神様をしているのではありません。天の父として子である私たちを愛し、私たちが天の父を愛することを求められているだけなのです。
ライフチャーチ 大谷信道