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2021年10月6日(水)
マタイの福音書 10:34-37 34わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。35なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。36さらに、家族の者がその人の敵となります。37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
【ポイント】 ①イエス様を愛するとは? 今日の個所につまずきを覚える人の方が多いと思います。特に、調和(空気を読むこと)を美徳とする日本人は戸惑いを覚えるかもしれません。
ここで、絶対に勘違いしてはならないことは、イエス様が争いや戦いを奨励しているのでは決してないということです。イエス様は、私たちがイエス様を一番愛するという主体的な決意をした時に、その決断に反対する人が必ず現れるという現実を教えているだけなのです。イエス様を一番愛するという私たちの「信仰」は、一人ひとりの「主体的な決意」であり、誰かに強要されるものでも、強制的に無効にされるものでもありません。ですから、私たちのイエス様を一番愛するという決意した結果、その決意に賛成しない家族や親せきとの関係が悪くなってしまう、場合によっては勘当されてしまうようなケースもあるということです。あくまで、「剣」は、私たちの信仰決心に対する、周りの人々の反応の結果であって、私たちが最初に剣を振り上げるのではないのです。
先に述べたように、ここで重要になるのが私たちの「主体性」です。私たちは、自分の人生について真剣に考え、自分の責任において物事を決定していくことが求められているということです。家族の言うことだけを聞きながら生きたとしても、親や兄弟が永遠に自分の面倒を見てくれることはありません。親や兄弟は自分の責任として、あなたを愛するがゆえに、あなたを正しい方向に導こうとするでしょう。しかし、彼らがいくら強い責任感をもとうが、どれだけ強くあなたの幸せを願おうが、彼らがあなたの人生の責任を持つことはできませんし、永遠にあなたと一緒にいることもできないのです。これが、現実なのです。
しかし、イエス様は冷徹な「自己責任論」を教えているわけではありません。イエス様は「私があなたの責任を負うよ」と呼びかけてくださっているのです。この呼びかけを信じ、イエス様を一番愛し、イエス様に人生を委ねていく決意をすることが「信仰決心」なのです。そのような意味では、ここでいう「主体性」とは、自分で責任を取るんだから、親や周りの人の言うことを聞く必要はなく、自分の好きなように生きればいいのだという「自分勝手」「自分本位」とは異質なものであることも覚えておきましょう。
また、結婚と同じで、周りからどのように反対されたとしても、5年後、10年後にあなたが幸せな人生を送っているこ姿を見れば、当初クリスチャンになることを反対し、剣を挙げていた家族も、あなたの決断を理解し、尊重してくれるようになることでしょう。あなたの家族が願っているのは、あなたの幸せだからです。
ライフチャーチ 大谷信道