デイリーディボーション 10月7日(土)

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デイリーディボーション 10月7日(土)

2017年10月7日(土)

【通読】
マタイの福音書 21:18-22
18翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。19道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。20弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」21イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。22あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

【ポイント】
①「いちじくが枯れる」=「死」
多くのクリスチャンが22節の「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」という箇所について、本来の文脈を無視し、自分勝手に解釈してしまっているようです。

「いちじくの実がなっていないこと」は民の不信仰、「いちじくの木が枯れること」は神様のさばき、永遠の死を意味しています(参:エレミヤ8:13)。マタイ3章10節のバプテスマのヨハネの警告を思い出してみましょう。「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」とバプテスマのヨハネが与えた警告を再度弟子たちに与えたのです。

実は、ヨハネの福音書でもイエス様は「
2わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ15章)と教えられています。

②この状況で何を求めるのか?
神様のさばきが目の前にある状況で、人は何を求めるべきなのでしょうか。健康、経済的祝福でしょうか。そうではないでしょう。永遠のさばきを目の前にした人は、神様の赦し、永遠の死からの救いを求めるのです。しかし、これらは人間の努力によっては絶対に手に入れることが不可能なものです。つまり、神様のさばきを目の前にした人は、自分の前に越えることが絶対に不可能な山が立ちはだかったようなものなのです。

このような状況であなたは何を求めますか?神様の救い、憐れみしかありません。イエス様は弟子たちに、救い主であるご自身を信頼し続けるように教えられたのです。イエス様を信頼し続けていれば、目の前に立ちはだかっている「永遠の死」という動かすことが絶対に不可能な山のような問題を解決して下さると約束されたのです。

このような文脈を無視し、「信じれば何でも手に入る!」というような、ご利益宗教のような解釈を教えているクリスチャンが数多くいるのは大変残念なことですね。「26人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16章)

ライフチャーチ
大谷信道


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