デイリーディボーション 10月7日(木)

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デイリーディボーション 10月7日(木)

2021年10月7日(木)
マタイの福音書 10:38-39 38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。39自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
【ポイント】 ①イエス様を愛するとは? その2 キリスト教は、天国に行く方法を教える宗教ではありません。人々の責感や、地獄に堕ちる不安を解消する方法を教える宗教でもありません。ましてや、魅力的なご利益で人々を喜ばせる宗教でもありません。これらは、多くの宗教に共通する姿ですから、そのような意味でキリスト教は宗教ではないという言い方もできるかもしれません。
皆さんの信仰の入り口は上のどれかに該当するかもしれませんが、聖書のみことばを普通に読めば、イエス様が私たちに求めている信仰、そしてイエス様が与えようとしている祝福は、この世の宗教の教えとは全く別物であることに気が付くはずです。しかし、残念なことに、人々のキリスト教が宗教であるという先入観が強すぎるため、誰でもが気づくはずである「イエス様の意図」が無視されていることが多いのです。
今日の個所も、多くのクリスチャンが読み飛ばしたり、無視している箇所です。そうでないかどうかを確認する方法は極めて簡単です。「あなたは自分の十字架を負ってイエス様に従っていますか?」という質問に正直に答えることです。
ただ、このみことばにも様々な「先入観」「固定概念」が入り込んでしまう可能性があるので、「イエス様の意図」としっかりと考えてみましょう。結論から言うと「自分の十字架を負ってイエス様に従う」とは、命を懸けてイエス様を愛するという人生を選び取ることです。そして、それがイエス様が教えらえる「信仰」なのです(ライフチャーチの皆さんは耳にタコができるほど聞いているポイントですね)。
人々が想像する最も純粋な愛も、イエス様が教える愛と大きく異なることはありません。例えば、結婚を決意する時、子どもを授かり、自分が親に覚悟をするとき、私たちは、自分の命を懸けて夫・妻・子を愛する決意をするものです。「義務感からでも、嫌々でもなく、相手のために喜んで自分の命を犠牲にしてもかまわない!」と自然に思ってしまうときに、私たちは相手を愛しているのだと確認することができます。そうでない場合は、そこに愛がないことを知ることができます。
「私はあなたを命懸けで愛します!」とプロポーズしたとします。相手から「命まで懸けることはちょっと・・・」という返事が返ってきたとしたら、あなたはその人と結婚することができますか? ちょっと考えちゃいますよね。
イエス様との愛の関係にも全く同じことが言えるのです。イエス様は実際にいのちを懸け、いのちを捨ててくださいました。そのイエス様にむかって「十字架まで背負うこと(命を懸けること)はちょっと・・・」と考えている人が、イエス様との愛の関係が成立すると思いますか?
あなたは、どうですか?
ライフチャーチ 大谷信道


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