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2020年10月9日(金)
ヤコブの手紙 1:5-8 5あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。6ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。7そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。8そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
【ポイント】 ①自分の生き方を選び取る 聖書が真実・真理を語っているのかは、私たちの肉体の死の後(瞬間)に明らかになることでしょう。無神論者が信じているように、神も魂も存在せず、人間は、その活動も存在も肉体の死をもってすべてが終了するという結果が待っている可能性もあるわけです。
しかし、私は、もし聖書に記されていることがすべて人間の想像・妄想に基づくものであったとしても、自分がイエス・キリストを信じた人生を後悔することはないとはないと確信しています。なぜなら、聖書がすべて虚構だったとしても、その虚構を信じて生きる生き様は、他のどのような有神論的な思想(宗教)よりも、無神論的な思想よりも、純粋で美しいものであるという確信があるからです。
その具体的な姿は今日の聖書からも見ることができます。唯一の存在であり、愛の存在である神様を、つまり神様から愛され、赦され、受け入れられていると信じてこの世を生きる者は、心に「平安」や「安定」を保って生きることができます。肉体の死ですべてが終わるとしたら、生きている間に最大限の幸福感を獲得する人生が有意義な人生であり、不安、恐れ、悩みなどを覚えながら生きていることは、限られた時間を無駄にすることになります。ですから、皮肉なことに、もし神が存在しないとしても、神の存在(愛)を信じて生きる人こそが、地上での最大の幸福感を獲得することができるのです。一方、絶対的な真理、信仰をもたず、あっちをフラフラ、こっちをフラフラしながら生きている人は、ただ地上での時間を浪費し、幸せ捜しに翻弄され、最後まで幸福の確信を得ることなく、自分の人生はこんなはずではなかった、もっと幸せな生き方があったのではないかと地上での人生を後悔しながら、最後の時を迎えるのです。
あなたが理想としている人生、自分の子どもや孫に模範として見せたい人生は、「風に吹かれて揺れ動く、海の大波のよう」な人生、「二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人」と生きる人生ではないはずです。そのような人生は、自分だけでなく、自分の配偶者、子ども、孫を幸せに導くこともできないでしょう。あなたが、キリストによって明らかにされた神様の愛を信じ、神を愛し、神に仕え、また家族を愛し、家族に仕える時に、たとえ聖書が虚構であったと証明されたとしても、心の中にある「愛」は存在しなかったことにも、嘘であったことにもならず、いつまでも事実として残るのです。
ですから、私たちは何者にも、何事にも、私たちの信じていることを脅かされることはもなく、自分の信仰を恥ずかしく思う必要もないのです。キリストの福音ゆえに、私たちは肉体の最後の瞬間まで確信と平安を持ち続けることができるのです。
ライフチャーチ 大谷信道