デイリーディボーション 11月1日(木)

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デイリーディボーション 11月1日(木)

2018年11月1日(木)

コリント人への手紙 第2 3:7-11
7もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、8まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。9罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。10そして、かつて栄光を受けたものは、この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。11もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。

【ポイント】
①「死の務め」と「御霊の務め」
今日の「死の務め」「御霊の務め」と、昨日の「文字は殺し」「御霊は生かす」という対比から、パウロの頭の中にある「御霊」ということばのイメージをはっきりと知ることができます。多くの人は「霊」「御霊」と聞くと、超常現象などと思い起こすのではないでしょうか。しかし、ここでの「御霊」は「死」「殺すもの」の反対語であることが分かります。つまり、「霊」とは私たちに「いのち」を与える存在であり、真の意味での「いのち」そのものであるということです。ヨハネ14章では6節イエス様もご自身について「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と宣言されていますから、パウロにとっての「御霊」のイメージは、生きて働かれるイエス様そのものであると言うこともできるでしょう。

それでは、なぜモーセの働きが「死の務め」と呼ばれているのでしょうか。7節に「死の務めにも栄光があって」とありますから、その働きが神様の御心に適うものであったことは間違いありません。しかし、真理に歩む者にとっては律法の行く先は「罪」とその結果である「永遠の死」なのです(ローマ6:23)。パウロは律法に超厳密に取り組んだ結果、自分だけでなく、だれ一人律法の要求に100%応えることはできないという結論に至ったのです。そしてその結果は「死」なのです(ローマ7章)。

最後にガラテヤ3章から聞いてみましょう。
21とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。22しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。23信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。24こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。25しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。26あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

ライフチャーチ
大谷信道


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