デイリーディボーション 11月16日(水)

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デイリーディボーション 11月16日(水)

2022年11月16日(水)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 6章15-16節 15それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。16あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
【ポイント】 ①キリストにある新しい生き方を理解する その2 パウロの時代にも、イエス・キリストの恵み、つまり「律法の行ないによる義」ではなく「信仰による義」をどうしても受け入れられない人がいました。ユダヤ人として律法を教えられ、必死に律法を守ってきた人たちにとって「信仰による義」は単なる「虫のよい話」に聞こえていたことでしょう。
15節の「私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう!」というのは、律法を必死に守ってきた人たちからの「皮肉」「冷やかし」のことばなのでしょう。彼らは、律法(戒律とそれを破ったときの罰則)が無ければ、結局人々は罪を犯し続けることになると考えたのでしょう。ここに、律法主義の最大の問題(落とし穴)を見ることができるのです。つまり、彼らは「罪に対する罰」または「罪を犯したときの周囲からの批判」などの「恐怖」によって動かされていたということなのです。反対に「恐怖」という原動力が無ければ、罪を犯さない生き方を続けることができなかったのです。ですから、「神様の恵み(愛)」によって動かされ、喜びの中で神様の前で正しい歩みをしていくという生き方(信仰)を理解することができなかったのです。
私たちクリスチャンの信仰は違います。私たちはイエス様が明らかにされた神様の大きな愛に包まれ、天のお父さんとの愛の関係の中で、天のお父さんを悲しませず、喜ばれる生き方を選び取りたいと思うようになるのです。繰り返しになりますが、天のお父さんからの罰を恐れてではなく、天のお父さんへの愛ゆえに、天のお父さんを悲しませるときに心に痛みを覚えるようになるからです。もちろん、ユダヤ教徒であっても、アブラハムたちがそうであったように、恐怖ではなく、神様の愛に動かされて生きている人たちもいることでしょう。反対に、クリスチャンであっても、天のお父さんの愛を理解せず、罰を恐れながら生きている人たちもいることでしょう。
自分が子どもを持つ親だと想像してみましょう。子どもたちが、自分を恐れ、自分に怒られないように一生懸命にいい子でいる努力をしている姿を心から喜ぶことができるでしょうか。確かに、親の中には、自分が厳しく(怖く)振る舞うことによって、子どもたちが礼儀正しく、いい子に育っていることを喜ぶ人もいるかもしれません。しかし、子どもの気持ち、子どもの心の状態をきちんと見ることができれば、子どもたちが委縮し、いつも親の目を気にし、おびえながら生きていることに心を痛めるはずです。天のお父さんも同じなのではないでしょうか。イエス様は、そのことを私たちに気が付かせるために、神様を天の父と呼ばれたのではないでしょうか。
神様が求められている関係は、恐怖による支配と従順ではなく、愛の関係なのです。そして、愛に動かされる私たちは、喜びのなかで正しい生き方を選び取っていくようになるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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