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2020年11月18日(水)
ヤコブの手紙 4:16-17 16ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。17こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。
【ポイント】 ①「むなしい誇り」とは? ここで「むなしい誇りをもって高ぶっている」とは、2章2-4節に記されている「2あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人が入って来、またみすぼらしい服装をした貧しい人も入って来たとします。3あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、『あなたは、こちらの良い席におすわりなさ』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい』と言うとすれば、4あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」というような状況を指していると思われます。
このような状況に陥らないための第一歩は、自分の心の中に差別や自己矛盾が存在することを認めることです。差別やえこひいきが100%存在しない教会は存在しないでしょう。それを差別やえこひいきとは呼ばないかもしれませんが、例えば自分の愛する子どもでさえ、「自分に対して反抗的な長男よりも、いつも機嫌が良い次男のほうが好き」などと心の中で密かに思っていることもあるかもしれません。クリスチャンであれば、自分の子どもを等しく愛していないことは罪であり、恥ずべきことであると考える人が多いでしょう。このような「べき論」に支配されてしまうと、自分の差別やえこひいきを認めることが大変難しくなります。自分の心にふたをし続けているうちに心が麻痺し、心に葛藤も覚えなくなってしまうことすらあるかもしれません。
ヤコブの念頭にある教会は、まさにそのような状態に陥っていたのではないでしょうか。差別やえこひいきをすると言うことが「互いに愛し合いなさい」というイエス様の命令に背いていることは誰の目にも明らかです。しかし、この世の価値観に従い、「まあ、世の中もそうなのだから」とイエス様の命令を無視し続けているうちに、自分たちが「むなしい誇りをもって高ぶっている」ことに気が付かなくなってしまったのでしょう。
自分の教会、家庭の中に、似たような現象は起きていないでしょうか。「自分が育った教会もそうだった」とか「自分の育った家庭もそうだった」などという理由から、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の命令を明らかに破っている自分の生き方に問題を覚えないという現象は起きていないでしょうか。よく吟味してみましょう。
ライフチャーチ 大谷信道