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2022年11月18日(金)
【今日のみことば】 ローマ人への手紙 6章20-23節 20罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。21その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。22しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。23罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
【ポイント】 ①キリストにある新しい生き方を理解する その3 今日の個所のパウロの考察は、非常にシンプルで説得力のあるものです。21節の後半の一言を見てみましょう。「何か良い実を得たでしょうか。」その答えは「いいえ」です。この結論は極めて重要です。結局のところ、自分の欲求・欲望のままに生きたとしても、一時的には楽しさを覚えるかもしれませんが、長い目で人生を見るときに、そこに良い実が結ぶことがないということを多くの人が経験として共有しているということなのです。
実は、律法主義も同じなのです。「律法を行うことによって義とされる」という生き方は、一見すると正しく、聖い生き方のように見えますが、そこには神様の御心とは別の、他人との比較、さばき合いなどが生まれてしまいます。昨日学んだように、神様の罰を恐れて生きるという、神様の望まれていない神様との関係が構築されてしまう危険性もあります。
欲望のままに生きる生き方も、律法・戒律に縛られる生き方も、結局それらに支配されてしまうという(奴隷になってしまう)という共通点があるのです。この奴隷状態に気が付いていない人が多いのです。過度な物欲や性欲などは悪いものであると認識している人は多いと思いますが、例えば、ワークホリック、潔癖症なども、仕事を完璧にこなしたい、身の回りを完全にきれいな状態に保ちたい、という「欲求」に支配されている状態ですね。「勤勉であること」「聖潔好きであること」は悪いことには見えませんが、それをやめることができなければ、奴隷状態になっているのと同じなのです。律法を守ることも、一見すると信仰熱心な(信仰深い)人のように見えますが、それをやめることに不安を覚えたり、守っていることに満足を覚えていたりしたとしたら、ある種の執着・依存状態にあることになります。このどちらも、長い目で見ると良い実を結ばないことをパウロは自身の体験から知っているのです。
しかし、イエス様の愛は、様々な奴隷状態(依存状態)に陥っている私たちを自由にするのです。そこには、不安や恐怖はありません。パウロは自身の体験からこの結論に至りました。同じように、私たちも自分の体験として、「欲望の奴隷」も「律法主義」も、その行きつく先は「死」であることに気が付く必要があります。イエス様の愛は、どちらに陥っている人も救うことができるのです。イエス様の愛は、私たちの心に真の満足と平安を与えてくれるからです。
ライフチャーチ 大谷信道