デイリーディボーション 11月19日(火)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 11月19日(火)

2019年11月19日(火)
コロサイ人への手紙  1:24-27 24ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。25私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。26これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。27神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
【ポイント】 ①キリストに仕える=教会に仕える 昨日の箇所と合わせて、パウロのメッセージを受け取っていきましょう。24節の「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」という箇所は、理解が難しいとされている箇所ですが、今回はちょっと横に置いておきます。なぜなら、それ以外のポイントがあまりにも重要だからです。24節のパウロのメッセージの中心は何でしょうか。そうです、「教会はキリストのからだ」であり、パウロはキリストのからだである教会のために受ける苦しみを喜びとしているというメッセージです。
さらに、24、25節を合わせて考えると、パウロにとっては、キリストに仕えるということは教会に仕えること、教会に仕えることはキリストに仕えることであったことが分かります。教会がキリストのからだであるという考え方はパウロの個人的な見解ではなく、すべてのクリスチャンに当てはめることができる真理なのです。ですから、キリストを愛する者は、そのからだである教会を愛したくなるはずなのです。反対に、自分はクリスチャンであると言いながら、教会を愛することに重要さを感じていない人は、キリストを愛することに重要さを感じていないことになるのです。
キリストのからだである教会の中には、生粋のユダヤ人、異邦の地で生まれ育ったユダヤ人、異邦人などの人々が混在していました。バックグランドの異なる人々が集まっているという点では現代の教会も同じです。そのような人々が主の民として一つになる唯一の方法は、一人ひとりがかしらであるキリストと繋がり、一人ひとりがからだの器官として互いにつながることです。ライフチャーチでは、十字架の絵を用いて学びましたね。「キリストを愛すること」が縦棒でと「主にある兄弟姉妹と愛し合うこと」が横棒で、その十字架の交点が教会なのです。縦棒だけでも、横棒だけも十字架にはならないのです。キリストを愛すること、主にある兄弟姉妹を愛することを決意した人は、民族、人種によらず、神様の子とされるのです。
あなたは、この交点に立っていますか?
ライフチャーチ 大谷信道


side_worship side_info