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2021年11月2日(火)
マタイの福音書 12:33-37 33木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。34まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。35良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。36わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。37あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」
【ポイント】 ①良い実とは「愛」にほかならない 私には一つの確信(信仰)があります。この確信のゆえに私は牧師をしています。この確信に確信が持てなければ、私は牧師を続ける理由はなくなり、イエス・キリストを信じる理由もなくなると思っています。そして、それは決して難しい話ではありません。
それは、神様は私たちを愛し、私たちと親子に見ることができる(それ以上の)愛の関係を持つことを望まれているということです。人間の欲求は神様の完全な愛以外で満たされることはなく、神様との愛の関係以外で平安を得ることは絶対にできないということです。残念ながら、クリスチャンであっても、これ以外に心の満たしや平安を得ることができるように願ったり、神様に祈ったりしています。牧師たちも、その求め(ニーズ)に応じることに必死になり、キリストの羊に間違った食物を与えるようなことをしていることがあるのです。
確信はもう一つあります。神様との関係だけでなく、人間と人間(夫婦、親子、兄弟、友人、同僚)の関係においても、神様の愛と同じ性質の愛の関係が結ばれていなければ、人間は決して幸せや平安を覚えることがないということです。特に「隣人」、つまり自分の近くにいる家族、主にある兄弟姉妹との関係が重要になります。どのようなことがあっても自分は見放されることなく受け入れられ、赦されるという環境がなければ、人間は一生大きなストレスの中に苦しむことになります。しかし、自分が罪を犯してしまっても、失敗しても、家族や教会の兄弟姉妹は最後まで受け入れてくれ、愛してくれるという確信があれば、私たち人間は、それ以外の場所でいかに大きなストレスにさらされたとしても、平安や幸せのうちに生きて行くことができるのです。
神様と隣人と愛の関係が結ばれている状態(愛の関係を築こうと取り組み続けている状態)こそが、「良い実を結ぶ」ということなのです。これ以外に、良い実が結ぶ方法は存在しないというのが私の確信であり、信仰なのです。
その第一歩は、最初に述べた神様の愛を知り、受け入れることから始まります。「神様の愛」を頭で理解しながら、神様が閻魔大王であるかのようなイメージを持ち続けているクリスチャンが非常に多いのです。または、期待に応えなければ愛してくれないという、自分の親に対するイメージと神様のイメージを重ねてしまっている人もたくさんいます。神様についての間違ったイメージは、自分の作り出した「偶像」です。いくら「偶像」を熱心に信じても、それは木や石を拝んでいるのと同じで、何の意味もないのです。あなたが、良い実を結ぶことを願っているのであれば、自分で作ってしまった神様のイメージを捨て、イエス・キリストが明らかにされた「愛の神様」「神様の愛」を受け取ることが、第一歩なのです。
この第一歩を間違えていることはありませんか?
ライフチャーチ 大谷信道