デイリーディボーション 11月29日(金)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 11月29日(金)

コロサイ人への手紙 2:16-19 20もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、21「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。22そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。23そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
【ポイント】 ①「宗教」のイメージを捨てる 禁欲的な生活をしている人が「信仰的」であると心のどこかで思っていることはないでしょうか。例えば、カトリックの修道士や仏教の修行僧の姿をテレビなどで見て「ああ私の信仰生活は生ぬるいな」などと感じたとしたら要注意です。あなたの「霊性・霊的な観点」がパウロが教えようとしているものと全く別物のまま(勝手な宗教のイメージ)のままである可能性があります。
パウロは、「 すがるな。味わうな。さわるな 」といような、一般の人が思い描いている信心深い人の生き方を「 この世の幼稚な教え 」と呼んでいます。パウロの「霊性・霊的な観点」からすると、このような禁欲的な戒律は「幼稚」であり、「この世的(肉的)」なものであると断言しているのです。パウロが確信をもって語る理由は、かつてパウロ自身が「 すがるな。味わうな。さわるな 」という律法に縛られて生きていた経験があるからです。
さらに、他教派(特にカリスマ派)の礼拝や集会に参加し、恍惚状態になりながら礼拝したり、異言を語る人を見て「これこそが霊的な礼拝だ!」とか「自分の教会は霊的でない!」と思ってしまったら、これも注意です。実は、私自身もその一人でした。しかし、パウロの「霊性・霊的な観点」、つまり聖書のみことばに照らし見てみると、一見すると霊的に見えた礼拝も、その中には大変肉的な思いが入り込んでいることに気が付きました。そこには、自分より霊的でないと思える人を見下げたり、自分のほうが霊的であると誇ったり、兄弟姉妹と霊的なレベルを競ったり、その結果分裂したりと、この世と全く変わらない、もしくはこの世よりも醜い肉欲が見え隠れしているケースがあるのです。まさに、パウロが23節で語っている通りなのです。「23そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」(もちろん、系カリスマ派の教会の中にも、聖書に忠実に歩んでいる教会はたくさんあります。)
とにかく、私たちが先入観として持っている「宗教」「信仰」のイメージが、パウロからすると生臭い、肉的なものである可能性があるということなのです。そして、多くの人が間違った霊的な感覚に騙されてしまっているということなのです。イエス様、そしてパウロが教えている本当の霊性、信仰の姿を理解しましょう。
ライフチャーチ 大谷信道


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