デイリーディボーション 11月3日(金)

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デイリーディボーション 11月3日(金)

2017年11月3日(金)

【通読】
マタイの福音書 24:15-28
15それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)16そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。17屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。18畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。19だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。20ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。21そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。22もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。23そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。24にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。25さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。26だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。27人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。28死体のある所には、はげたかが集まります。

【ポイント】
①「荒らす憎むべき者」とは?
16節の「ユダヤにいる人々は」という記述から、今日の箇所はイエス様の時代に生きているユダヤ人たちに対する警告であることが分かります。実際の歴史を検証すれば、紀元70年前後のユダヤ戦争についての予告であることが分かります。そのような意味で、今日の箇所は現代の日本に暮らす私たちに対する直接的な予告ではないことが分かります。

しかし、イエス様の昇天以来「終末」の時代は続いていますので、今日も「患難」について考えていきましょう。

②忍耐の根拠は「約束」
人間は誰でも自分にとって良いことが起これば喜び、都合の悪いことが起これば悲しんだり、怒ったりします。この現象は、人種、言語、国籍に関係のない普遍的なものです。しかし、使徒パウロは1テサロニケ5章16-18節でこのように教えています。「16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と教えています。そのようなことは可能なのでしょうか。

多くのクリスチャンは先のパウロの教えを「不可能」だとして、最初から取り組むことすらしていません。また、別の多くのクリスチャンは倫理的な教えとして受け取り、常に喜び、祈り、感謝するように日々努力を重ねています。しかし、聖書を文脈に沿って理解しようとすれば、そのどちらも使徒パウロの意図することではないことが分かります。その文脈とは「イエス・キリストのの約束」と備え」です。1テサロニケ全体に軽く目を通すだけでも、その内容の中心は「イエス・キリストの再臨」であることが誰にでも分かるはずです。ですから、パウロは「イエス・キリストが再び来られ、あらゆる艱難から私達を救い、完全な慰めを与えて下さるのだから『16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18すべての事について、感謝しなさい。』」と教えているのです。イエス様の再臨の約束という文脈が抜け落ちる時に、この教えは「実現不可能で大げさな戒め」となってしまうのです。しかし、イエスの再臨を信じる者にとっては、患難、苦難の中でも大きな励ましのメッセージとなるのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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