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2021年11月5日(金)
マタイの福音書 12:43-45 43汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。44そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。45そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」
【ポイント】 ①「あいた家」「かたづいた家」の問題点 日本では「空き家」が社会問題となりつつあります。「空き家」について、多くの人が実体験として口にするのは「家は人が住んでいないと傷む」ということです。主(あるじ)のいない家が良くないものであるという点は、今日の聖書個所と共通しているわけです。
今日の聖書個所の「あいた家」「かたづいた家」の問題点は、そこに主人がいないということです。つまり、パリサイ人、律法学者が自分の聖さを保つために熱心に律法を守ったとしても、そのような人間のからだは、単なる「あいた家」「かたづいた家」であり、悪霊に対しては無防備でありと言うことなのです。
この家に必要なものは「家の主(あるじ)」です。私たちは家である自分のからだをきれいに片付けるだけでなく、神様に主(あるじ)として住んでいただくことが必要だということです。
ちょっと話がそれますが、イエス・キリストを信じる(愛する)決心をした者は、神様がうちに住んでくださる約束が与えられています。今日の個所と合わせて考えると、クリスチャンである私たちは悪霊に取りつかれたり、悪霊に心が支配されてしまう心配はしなくても良いということになります。カトリックでも、プロテスタントでも信者に対する「悪霊の追い出し」を行っている教会があるようです。「悪霊」とは呼ばなくても「病の霊」などという表現が使われることもあるようです。「病の霊」という表現は聖書にも見ることができますが、そのような霊につかれている人はイエス・キリストを信じていない人です。信者に対する悪霊の追い出しは聖書の教えには合致しないことを覚えておきましょう。
大切なことは、悪霊を追い出すことではなく、神様に「主(あるじ)」として、うちに住んでいただくことであり、私たちクリスチャンは主がうちに住んでくださっていることを堅く信じることなのです。
ライフチャーチ 大谷信道